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原澤出版の執筆用ブログ

7:子どもが育たないのは、先生が育っていないから。という皮肉

7:子どもが育たないのは、先生が育っていないから。という皮肉

 

 教育という言葉は子どもであり、未成年者、学生に対してというイメージが強いが、実際日本の教育が浅はかなのは、社会に出ると勉強する者が著しくいなくなるという部分だ。子ども達は「大人になると勉強しなくて良くなるのか、夏休みの宿題も出ないのか、いいなぁ大人って。」とばかりに大人=勉強しなくて良い存在としてみるため、皆大人になると「もう自分は学校に行く必要はない」とばかりに勉学する事を放棄する。もちろん学生時代も自ら勉学を進んで行っていたわけではなく、言われたことをただただやっていただけなのだろうから、自ら進んで勉学をするなどという者は、片手で砂浜の砂を掴んで掴める程度、ほんの一握りの人間しか大人になって勉学する者などいなくなる。

 もちろん、社会人になれば要求されるのはテストで高得点を叩き出す事ではない。それこそ学校のお勉強のような事が好きな人間は何かの資格取得のためのお勉強にでも精を出すのが、精いっぱいだろう。学校教育の仕組みについてもそれと同じことが言える。学校教育の質を上げるためには、教師たちがもっとレベルを上げるための教育を受ける必要がある。「受ける必要がある」というのも少し変で、受けるというよりも教師自身が己を磨き続ける美学を持つ必要があるのだが、そのようなストイックな精神の持ち主が、今の時代の教師の中にどれだけいるのかは分からないし、皆無に近いだろう。「教師」というバッヂに胡坐をかいて、学校という一般社会から見ればある種なアングラな世界の中で、「先生様」として君臨して生徒たち相手にふんぞり返っていれば、それで事なきを得る職業なのだから、いちいち社会に出て自分を磨くなどという事をあえてしに行く必要もない。そんな事をすれば、自分たちがどれだけ「学校」という囲まれたエリア内でしか通用しないのかという臭いものにしていた蓋を開けて向き合うことになってしまうからだ。

 しかし、本来「先生」などと呼ばれる存在は、誰よりも社会経験豊富で、幅のある人生経験を持ったものが、教壇に立って何か人生経験を伝えていくような存在であるのであればこちらも、そういう人物たちを「先生」と呼んでみたい気にもなる。現実はそうではなく、短大やら大学出たての兄ちゃん、姉ちゃん達であっても、教育実習に行って採用されれば、その日から「先生」と呼ばれ、「先生」ヅラをして生きていく事になる。これがこの日本の「先生」を作るシステムだ。そんな若造のどこをどう「先生」と評価してよいのか分からない。まさにどこかのイメージクラブで「先生」を演じる者達と大差なく見えてしまうのは私だけなのだろうか。

 そういう事実からして、日本は「先生」という存在を教育してもいないし、育てようともしない。それこそ教員免許は三十五歳までしか取得できない。などというルールがあるが笑うことも出来ない。普通だったらその反対で、教員免許は三十五歳以上ではないと取れないというルールならば理解できるが、「日本では人生経験の浅い若造が「先生」役をするのに相応しい。」というルールを作っていて、「人生経験」などという部分は「先生」になるためにはまったくもって価値を感じていないという意思表示をしているのだ。そういう事からも「日本の学校教育」というものがどういうものなのかは理解できる。「人を育てよう」などという意志も意思もそこには存在しないのだ。

 学校嫌いの私は、むしろ「先生」という資格は三十五歳からぐらいで良いと思っている。学生から社会人になり、そこから十年、二十年どういう生き方をして、何を学び、何を得てきたのか。そこが問われて、世間から選出されれば良いのだ。「先生」に資格など不要だ。必要なのは「先生」としての自覚であり、生き様なのだ。現実はその逆で、先生としての自覚のない公務員共が、資格にふんぞり返ってるだけ。だからこの国にはろくな「先生」が存在しない。こんなぞんざいな制度にしたことによる損害は大きい。

 次に、広い意味で「教育者」の事を考えてみれば、「教育者」に資格などは本来は要求されていない。世の親は子どもがいれば資格など要求されずに教育者になる訳で、教育者ということはそれはすでに誰かにとっては「先生」のような存在になっているということだ。

 しかし、家庭における教育者、つまり子の親は、やはり子ども達の習い事にでも散財して、教育者側である親である自分たちは年間に本の一冊も読書せず、スマホいじったり、ワイドショーでも見て何も学ぼうとしない散々な人生を送っている者ばかり。そんな親の背中を見て育てば、「大人になったら勉強しなくていいんだ。早く自分も大人になって勉強しない生活を手に入れたい。」というような願望を持ってしまうのはしょうがない。それなのに親自身は自らは勉学などしないその「背中」で、子ども達には「勉強しろ、勉強しろ、とにかく勉強しろ。」とお経のように唱え続ける。そんなお経よりも背中で語っている真実の強力さに気付かず、「大人になったら勉強しなくていい」というひとつの日本国中に蔓延するウィルスのような宗教のようなその空気によって、ずっと負のスパイラルは続くのだ。

 教育改革とはこの「大人になったら勉強しなくていい教」の負のスパイラルを断ち切る事だ。方法は単純明快。子どもの何倍も大人たちが勉強する事。一般の社会人の何倍も「先生」という立場の人間が勉強する事。これだけだ。それが出来ない人間は「先生」などという役を演じるべきではないし、演じ切れるわけがない。それこそ、昨今RAPでバトルをする文化が世の中で流行っているが、「先生」同士が、どれだけこの一年の間に己を磨いてきたかをぶつけ合う大会を開催して、「先生道」的なものを正々堂々とぶつけ合って、一般の大人達に感動を、そして子ども達には夢と憧れを提供し続ければ良いのだ。そうすれば、私が激Disっているようなクソの役にも立たないペーパードライバーならぬ「ペーパーティーチャー」のような資格だけで、人間力が大阪のうどんのつゆよの濃さよりもうっすい連中は「先生」などと呼ぶに値しない人物であることがはっきりすることだろう。などと提案しても、既得権益にしがみつく連中は自分の実力の無さが露呈する事などする訳がないし、己を磨くなどという大変な事もしたくないだろうから、そんなバトル文化が教育界に創られることは今後百年経とうが、千年経とうがあり得ないだろう。

 だったら新しく作ればよい。というかその方法しか日本の教育は変わらない。たしかに良くも悪くも歴史のあるものを変えるのは難しい。だったら一から作り直せばよいのだ。それこそ日本の教育の歴史の歩みの中で、何が良くて、何が悪かったのかは事実として残っている。その事実をしっかり受け止めて新しい教育を一から作っていけばそれでよいのだ。時間がかかってもやりつづけていれば、いずれ新しい教育システムが人々に受け入れられる日が必ずやってくる。もう、日本の教育は終わっているのに、表面上終わっていないように見せている悪あがきに過ぎないので、とにかく、気持ちのある人間達が日本に「新しい教育の形」を提案し続けていけば、いずれ近いうちに既存の教育システムはビルが解体するように一気に崩壊するのは目に見えている。もう「あと一押し」である事は間違いない。それは時間の問題だ。

 しかし、「ここがヘンだよ、日本の教育」と主張している人間が増えるなか、実際に火中に手を突っ込んで栗を拾いに行く勇者はいない。崩壊寸前とは言え、誰かが止めを刺しに行かねばならぬのだが、悪あがきをする状態程タチの悪い状態はない。「日本の教育」という生き物は、それこそ意味もなく人を飲み込むみつづけているので、この虎を退治にしに行く人間がなかなか現れないのも事実だ。

 それ以上にこの「新しい教育づくり」は自分自身に負担がかかる。なによりも自分が率先して己を磨き続けなければ「先生失格」となるルールだからだ。教育以外にも「先生」と呼ばれる職業を想像すれば分かる。ほぼすべてといって良い程「先生」と呼ばれる職業は、その「先生」という資格で、ふんぞり返って甘い汁をすするような職業ばかりだ。これが何を意味しているのか。「先生」という職業に就く人間達は、己を磨くなどという苦行を自分に課したくないのだ。資格を得る事だけで「もう自分たちの苦行は十分だろう。後は好き勝手にやらせろ。」という主張が、この「先生」という言葉の中に怨念として憑りつかれてしまっているような気がしてならない。

 「これ以上努力しなくても良い」という状況下で、あなたはひたすら努力し、己を磨くことを果たして選択する事ができるだろうか。言葉にするのは簡単だが、それは容易な事ではない。容易であれば、現在の「先生」たちだって精進し続けている事だろう。「先生」というバッヂをもらい、己を磨き続けることは非常に難しい事なのだ。それは、魔王が魅力的な事で魔界に引き込むあの囁きのようなもので、魅力的なその囁きに人は自分を保って、己を磨き続けるなどという苦行を選択する事はそれこそ、神の領域にも近いほど人間が磨かれていなければできないことかもしれない。だからこそ、そこまでできる人間が「先生」と呼ばれ尊敬されるべきで、訳の分からない資格取得者共を「先生」などと呼ぶ文化であり社会そのものが、ただの「イメクラ文化」でしかないことを我々はそろそろ気づく必要があるし、もう「イメクラ文化」での「先生と生徒ごっこ」を卒業し、リアルな「教育環境」を真剣に創る必要に迫られた時代が到来したことに気付くべきなのだ。

 「大人になってこそ勉強を。」「学生終えてから勉強を。」という自分磨き文化を確立していかない限り、現在日本で行っている教育などというものはただの案山子づくり的な伝統工芸に過ぎず、新しい人づくりとしてのハードとしても幼ければ、ソフトとしても幼い代物にしか過ぎない。今の時代にゲームウォッチを無理やりやらせているようなもので、スマホ世代の人間達にそんなものが流行る訳がない。それを国で「義務」として強制的に課しているのだからたまったもんじゃない。何事も「自分から率先する力」を養っていかない限り、人も崩壊するし、国も崩壊する。後悔は先には立たないので、する前に手を打つ必要がある。もう転んでいるようなものなので、転ばぬ先の杖は無用であり、現時点ではどうやって立ち上がるかというここが問題になっている事を理解し、出来ることをやっていくしかない。これまでの日本教育については、反面教師としてああならないように、新しい教育を創っていくしかない。