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原澤出版の執筆用ブログ

8:常識という名のローカルルール、礼儀という名の洗脳儀礼について

8:常識という名のローカルルール、礼儀という名の洗脳儀礼について

 

 非常識を教える学校などおそらく存在しないだろう。ということは、学校は「常識」を教える場なのだ。そして教育とは「常識」を叩きこむ事であるとも言える。もちろんその考えは偏見なのだが、一般的に日本の教育とは「常識」を叩きこむ場であり、「いかに尖って非常識に生きるか」などということを推奨しているところではない。右向け右とかけられた号令に対し、左を向けば確実に「何をやっているんだお前は。」と怒られる事だろう。何が言いたいのかというえば、日本の教育とは皆に「右向け右」と号令をかけて、同じ方向に進ませるというその教育というか洗脳を「教育」と呼んでいて、もしかしたらお国のトップが「一番力を注ぐべきは教育」などと発言してるその意味は、いかに日本国民を「右向け右」的な号令に対して、従順な飼い犬へと飼育していけるかどうかという「ここ」に力を注げという最低最悪なメッセージである可能性があるということだ。そのような発言の真意であるにも関わらず、国民は「教育に力を注げ」発言に対して、勝手な解釈をして感動し、支持してしまったりするから人間っという存在は手に負えないのかもしれない。それこそ、表面上の言葉ではない、その中側にある真意を読むための教育を、我々国民は学校ではされてこなかった。とにかく表面上の言葉をそのまま忠実に受け入れて、言われたとおりに命令されたことに対して、決まった正解を返すというこのサーカス団でしつけられた動物たちのような反応を繰り返し繰り返し擦りこまれてきたのだ。

 しかし、「日本の常識、世界の非常識」と表現されるように、「常識」とは、世界的に共通のルールではなく、その場におけるローカルルールでしかないという事に人々は気づかなくてはならない。やたらと、常識を盾に善悪を決める人間達がいるが、残念ながらそれは「常識」という名のローカルルールをこちらに無理やり押し付けて善悪を決めているだけに過ぎない。トランプの大富豪のルールが、人によって違うアレとまったく同じでなんとなくは一本筋の通った共通ルールはあるものの、時には赤の3が強かったり、時には11が出たらカードの強弱が逆転してみたり、それが正しいかどうかは誰も決める事ができない。決めることができるのは、その場にいる者達の主観的な判断でしかない。

 本来「常識」などという絶対的なルールは存在しない。信号が赤だったら止まるのが常識だ。というが本当にそうだろうか?後ろから津波が襲ってきた時、あなたは信号が赤だからといって止まるのだろうか。まず、その状況において止まる人間はほぼいない。だけど、「常識」に雁字搦めになっている者は、もしかしたらそのような状況でも止まるのかもしれない。「常識」とはどこで決められているのか?それはそれぞれの頭の中で作られている事を理解していく必要がある。「常識」という言葉を振りかざす人間とは付き合わない事をおススメしたい。なぜならば、建設的な会話などできる訳がないからだ。もちろん建設的な会話ができないということは、建設的な人間関係など築く事が出来ない事も意味する。基本的には人はそれぞれの「常識」を持った非常識な存在なのだという事を理解した人間達と付き合う事をおススメしたい。もう誰かの「常識」になど縛られた人生はそれこそ、SMプレーの好きなオッサン達以上に縛られることを愛好している変態でしかない。人生を幸せに生きるセオリーは、誰かの常識に縛られずに生きる事だ。しかし、気を抜けばいつの間にか自分を「常識」という鎖で縛りあげるご主人様があなたの前に立っているなんて事はよくあることだろうし、そのご主人様の数は決して一人ではなく、複数存在しちゃってもう体が引きちぎれるぐらい、いろいろな人間の作り上げた「常識」という鎖で縛られまくっている可能性すらある。本当に「常識」という鎖は恐ろしいものなのだが、学校教育によって、しっかり「常識」に縛られることを学んだ我々日本人は、結構「常識」に縛られることに快感を覚えていたりもする。まあ、そうやって国を挙げて人間を幼少期から「常識」という鎖に繋いで飼いならしていく事が、既存の日本の「教育」における主たる目的の一つとも言えるのだ。

 そして、「常識」のお友達というか親友というか非常に仲の良い存在に「礼儀」というものが存在する。これも「礼儀がある」だの「礼儀がない」だのと他人を洗脳するには格好のツールなのだ。それこそ、私自身「礼儀のない奴」が「礼儀」という言葉を使って他人を洗脳したケースを何度も目撃したことがある。「常識」よりも恐ろしい洗脳ツール、それが「礼儀」なのだ。

 日本人の多くは、「常識がない」と言われるよりも、「礼儀がない」と言われるとNAZOの催眠効果がはたらき、「礼儀がない」と指摘された人間に、なぜか従順に従うようになってしまうのだ。おそらく、幼少のころから「礼儀」という言葉を使われ、教育を受けてきたのだろう。それこそ、「礼儀」を教える存在は学校というよりも、家庭で教わるケースが多い。つまり自分の親が「礼儀」についての大切さを幼少期の頃から何度も何度も叩きつけてきたのだろう。それこそ、親は「しつけ」と称し親から見て「礼儀」のないような言動を子どもがしたときには、手荒な事をして「礼儀」を教え込んだケースも多い事だろう。

 だからこそ、そのような人間は、常に「礼儀」にだけは気を付けている。だからこそ、自分自身が「礼儀がない」などといわれるとは思ってはいないのだ。そこにだけは自信があるからだ。そのような人間が、「あなたは礼儀がない。」などと誰かに言われたらどうなるだろうか。脳内は「なぜ?礼儀だけには気を付けているのに・・・」と混乱する。そして、その人間は、必死に「自分のどこに礼儀のない部分があったのだろうか?」と必死にその自分に礼儀のない部分を検索し始める。これで、従順な奴隷の一丁上がりなのだ。不思議な事に「礼儀がない」と言われた人間は、もはや操り人形のように「礼儀がない」と指摘した人間に従う事になってしまうのだ。

 これは、大げさな話ではなく本当の話で、「礼儀」以外にも「まさか自分がそんな事を言われるとは思わなかった・・・」というような事を言われると人間の脳は混乱をきたし、「自分のどこにそのような部分があるのだろうか?」と必死に検索し始める。あくどい連中は、この効果という作用を利用して、人を洗脳する。もしも、こういう事を「先生」という存在が使い始めたらそれこそ大惨事になるのだが、実際は、「先生」と呼ばれるような人間達がこのような洗脳手法によって、人を縛り上げに来る例は枚挙に暇がない。それは「先生」と呼ばれる立場の人間と、「先生」と呼ぶ側の人間には上下関係が出来ていて、「先生」が「お前には〇〇がない」などと言えば、それこそいちころで奴隷を作ることが出来る。さらには、ダブルバインドという縛り上げ方によりもう縛られた人間はどこまでもおかしくなっていく。

 これが、国で禁じている危険な薬物的なものを使用したことによって起こるのであればそれほど恐ろしいものではない。それは手を出さなければ良いだけだからだ。しかし、今論じているこの内容は、回避する事が不可能というか、日常平気で歩いている道に地雷が埋め込まれているのと同じで、いつその洗脳の地雷を踏むかなど予想がほとんどつかないのだ。「常識」「礼儀」といった一見、「人として正しき道を進む」というような方向に進ませているように見せておいて、実際はなんてことのないただの洗脳手法である事は、世の中の至る所に潜んでいて、それこそ日本は治安のよい国などと言われているが、精神的な意味での治安など決して良い国ではなくむしろ最低ランクに属されている国だと個人的には思っている。それこそ、国自体で怪しい宗教的な儀式を国民にさせているような恐ろしい国のように見える。自由で平等という常識を掲げつつ、実は不自由で不平等な事ばかりを国民に押し付けてくるとてつもなく恐ろしい国になってしまっているのだ。その諸悪の根源は、日本の教育システムに他ならない。ここさえなんとかなれば、日本は日本らしさを取り戻せると私は考えている。日本をダメにした一番の原因は、既存の日本の教育システムにある。日本という国が自らこういったやり方を創ったのか、それとも戦後の混乱した状態でやむを得ずこうなったのかは、その当時の日本を生きていない私にとっては、はっきりとした事は分からない。しかし、現状からすれば、日本の教育システムは悪魔に魂を売って、代わりに何かを得たような非常に汚らしい存在へと成り下がっているようにしか見えないのだ。

 人を洗脳し、ダブルバインド的な作用で縛り上げてまでして、人間一人の人格をボロボロにしてでも従順な傀儡を量産していこうとするそのシステムに、「礼儀」までもが利用されている悪しき世界を見逃しては、良い国などできる訳がない。かと言って、もはや国民はそこまで日本の教育が恐ろしいものであるなどということに耳を傾ける者はそれほど多くないだろう。

 しかし、少し立ち止まって客観的にこの国の教育を見てもらいたい。そうすれば、この国の教育がいかにイカレた映画MATRIXもビックリの洗脳システムを創り上げているかに気づくことができるだろう。すべての常識をまずは疑うことから始めよう。そうすれば、この国が提供している「教育」というものが、「教育」などではなくただの「洗脳」である事が見えてくる。「礼儀」がどうこうと言っている人間時代に「礼儀」があるのかを冷静に、客観的に見てみよう。ただの口だけで、「礼儀」がどうこうと言っている偉そうな奴らほど、「礼儀」などという事を重んじてもいなければ、「礼儀」知らずである事に気付けることだろう。「常識」だの「礼儀」だのと言った他人の都合でつくられたローカルルールに、自分の貴重な人生を縛り付けられないように、ここにだけは細心の注意を払わなければ、いつどこで、そういった「洗脳」という鎖に縛り付けられるかは分からない。決して日本は我々が思う程、安全な国ではない。これは陰謀論の類ではなく、日常誰にでも起こり得る話をしているのだ。もしもこの話が大げさに思えるのであれば、すでに「常識」や「礼儀」だのと言った他人のつくった鎖にあなたは縛られてしまっているのかもしれない。それほど、このローカルルールの鎖は恐ろしい存在なのだ。「教育」という名にすり替わって、油断すればいつでも侵入してくる日本という国に蔓延している毒ガスのような見えない空気としてそこら中に漂っているようなものなのだ。それこそ、我々は「非常識」というガスマスクを携帯する必要がある。