読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

9:なぜ、モンスターペアレントは誕生したのか

9:なぜ、モンスターペアレントは誕生したのか

 

 これまでは学校でありそこにいる教師達をDisってきましたが、もちろん教育というものは学校に任せる者ではなくて、それこそ親たちが本来は責任をもって自分の子どもを立派な大人に育てる義務など貸す必要もない、責任を問う必要も本来はない、「当たり前」が存在するのだが、まあ、世間を見てみれば赤紙が家に届いたような無責任さで「勝手に子どもが出来て生まれた。だから育てる義務も責任もない。」というような親も世の中には存在する。そういう意味では、「平均化」という最低限の教育を受けられる国のシステムはすべてを否定するものではないのかもしれないが、子どもをつくるという事に対しては、資格のようなものはないので、大人たちの意識が高かろうが低かろうがやることやれば、子どもは生まれてきて、運が悪ければその子どもはろくな教育を受ける事ができない境遇に生まれてくることになる。現時点では、子どもは親を選んで生まれてこれないという事になっているので、そういう恵まれない環境に生まれてきてしまった子どもは何も悪い事をしていないのに、相当ハードル高い人生を幼少期から生きることを課せられる。

 本来は、教育すべきは先生にしろ、親にしろ「大人側」に義務的な何かを課すべきで、実際子ども自身など伸び伸び育てればそれで普通にその「平均点」以上の大人に育っていくのだが、どうしても「教育」というものは、立場の弱い者達に無理やり押し付けるそのやり口を「This is 教育」と日本全体でそういう空気を作っていて、もうそれ自体に私はうんざりしている。「教育」と「学習」とはセットのようなもので、それこそ鳥の雛が自分の力で飛べるようになるまで最低限の面倒を見てあげることが「教育」であり、ここでいう「自分の力で飛べる」というのは、「自分の意志で生涯学習して人間力その他を高めていく」という事に他ならない。しかし、見渡せば、大人になって自分の力で飛んでいる大人達の数は少なく、ただただ飯を食って命を食いつないで、あとは自分の趣味にでも興じていればそれで良いのだばかりの生き方をしている大人達だらけだったりする。

 もう、その事実が日本の教育は失敗している証拠のようなもので、何故、大学まで出た人間が社会に出ると急に勉強・学習の類をしなくなるのかが分からない。分からないというのは「本来の目的からして意味不明」という意味で、なぜ高卒よりも大卒の人間の方が優秀と見るかは、その「勉強意欲・学習意欲」のようなところが買われているのではないのか。大学を出て社会に出てろくに勉強もせずに、スマホでゲームでもしている人間と、中卒で、現在自分を磨くために日々、何か学習したり、チャレンジしている人間を比較した時に、それでも学歴を社会は優先するのだろうか?このあたりを、私は非常に今の時代の日本の社会、評価システムを嫌っている部分はそこにある。過去の栄光にすがるような評価し課せず、「今」その人間がどれだけ精進しているかを評価しないのだ。そんな二十代半ばまでどのくらいお勉強してきたかなどという事で、その後の人生における部分の評価までされてしまってはたまったものではない。

 少し、話が逸れたように思われるかもしれないが、逸れていない。例えばこの項のタイトルにもなっているモンスターペアレントだが、果たして、そのモンスターペアレントとやらは学歴の低い人間がそうなるのだろうか。といえばそうではない。それこそ有名な大学を出たエリートと称されるような者達の中からも、モンスターペアレントは輩出される。むしろ排出されると表現した方が適切かもしれないが。

 何が言いたいのかというと、モンスターペアレントは学力が低いからなどという理由で誕生する訳ではなく、別の何かが原因で、モンスターペアレントは誕生するという事だ。それは「学力」では計れないコンテクストというかパラメータが存在していることを意味していて、さらに言えば日本の教育システムではそのコンテクストをまったく無視した教育システムを導入しているという事だ。「学力が高ければ、人間的にも質が高い。」本来国ではこういうレッテルを貼りたいというか、そういう形にしたかったのだろうが、残念ながらそうはならなかった。それを形にして見せたのがモンスターペアレントという存在だ。

 では、モンスターペアレントになるような親たちに共通する要素は何か?それは紛れもなく、『自分たちさえ良ければ、それでいい。』というこの価値観だろう。この価値観ではない人間がモンスターペアレントになるということはなかなか難しいというか、実際無理な話だろう。では、学力の高い優秀な学歴のエリートさま達は、そんなにおしとやかで、それこそまわりにも配慮できるだけのゆとりであったり、心の広さを兼ね備えているかと言えばそうとも決まっていない。むしろ受験戦争という名の通り、我も我もと頂点を目指して己の欲望をむき出しにしてお勉強をしてきた人間達は、それこそモンスターペアレントになる要素を十分に兼ね備えてしまっている事を証明しているような気がしてならない。

 それこそ、親として「優秀な親」とはどんな存在なのか?何も言わなければそれで良いのかといえばそうでもない。むしろ数十年前の親は、学校や先生の言いなりになっていた節がある。それはそれでよろしくはない。しかし、その反動で今度は過剰な主張をしはじめるお騒がせなモンスターたちが誕生する。モンスターペアレントが世に蔓延るとどうなるか。大人しい親たちをほったらかしにして、モンスターペアレントたちを逆なでしないようなルールであり対応に変わっていく。「どんなモンスターが来ても、やり過ごせるように」という縮こまったルールが確立していく。そしてこの負のスパイラルによって、学校という存在は、パン工場のような存在になり、子ども達はただただその工程に流されていくほとんど意味などない名前だけは「学校教育」という名の何かを施されて、毎日工場に集団で入っていって、数時間何かされて、再び工場から集団で自宅に帰っていく。というこれをひたすら繰り返す。個人的には、学校に通う子ども達というのは、さほど刑務所に入れられている囚人たちの生活と変わらないように見えてしまう。何時に起きて、何時に学校に行って、決まったことをやらされて、何時に帰る。活動して良い領域が「学区の内と外」に決められその境界線から出ることも禁じられている。もはや脱走するなと決めているようなものだ。

 私が以前住んでいた某サッカーの街で名を売っている市内の小学校では、校庭にサッカーゴールは立っていなかった。つまり休み時間に子ども達はサッカーをすることがてぎないのだ。さらには年数が経つと、「グラウンドでボールを蹴る事を禁止」していた。極力何か問題が起こらないように、モンスターペアレントが騒がないようにという配慮なのだろう。こういった事情を見てしまうと、恐ろしくて愛するわが子を学校に通わせようなどと言う気持ちにはなれず、「なぜ、自分の子どもを刑務所のようなところに毎日のように送り込まなくてはいけないのだ?」と思ってしまうが、このような子ども達を雁字搦めのルールに縛り付けることを、世の大人たちはそれ程問題視していない。

 私自身、小学校に通っていた一番の楽しみは、二時間目が終わった後の二十分休みと昼休みの時にクラスメイト達とやるサッカーだった。もちろん放課後もみんなで集まって学校の校庭でサッカーをやった。しかし、今の時代に生まれていればそれらをする事ができないのだ。地獄でしかない。まだ、刑務所の囚人たちの方が楽しい事を休み時間にしていそうな気がしてならない。

 そして、私が長年Disっているのは、集団登下校だ。おそらくだが、あの登下校スタイルによって事故に遭う確率が減るという目的だろう。では、その集団登下校の集団に車が突っ込んで死んでいった子ども達は浮かばれるのだろうか。自分の意志で自分の時間で自由に学校に通っている際に事故に遭うのであれば、まだ、やりきれない気持ちをなんとかすることは出来るが、命じられた集団登下校によって、その集団に車なりなんなりが突っ込んできた時は、個人的には学校の校長はもちろん、文部科学省から何からやれることを全部やってやろうという気持ちになる。それこそ死刑になる事も厭わない。自由を奪った代わりに安全を提供したというのに、その約束が破られたときにはそれなりの責任は、法を犯してでも取ってもらおうと思っている。それが自己満足と言われても構わない。もちろん、そこまでの大惨事になるので、絶対に集団登下校になど私が応じる事は無いが。変なオッサンに連れていかれてしまったのであればそれはそれでその子の運命なのだと割り切れる。もちろん、ここは個々の価値観によるとは思うが、それだけ国の憲法で与えられた「自由」を奪うという事はとてつもなく、大きなものを奪っている事を学校だろうが、文部科学省は自覚をした方が良い。

 実際、子ども達から「自由」を奪ったのは、モンスターペアレントなのか、腰の引けた文部科学省やら教育委員会なのかは分からない。もはやこれはたまごが先かにわとりが先かという問題と同じで、どっちが先かはもうどうでもよい。どっちも原因である事には変わりがないのだから。とはいえ、もうモンスターペアレント達に「お前ら頭イカレてんじゃねーのか?」的な事を指摘したところで、頭がイカレてるんだからいうだけ無駄だ。ではどうすれば良いのかそれは、「価値観の似たような親たちを集めて学校に通わせる」とかそういう事をすればよいのではないか。それでも個人的には学校には通わせないかもしれないが。

 「ゴールが倒れて子どもに何かあっても構わないので休み時間に好きな事をさせて欲しい。」と思う親子はその親子たちだけで学校を創れば良いし、なんか訳の分からない事を主張するモンスターペアレント達は、ひとつの学校に固めてしまえば良い。ある種の隔離戦法みたいなものだ。それは教師達にも同じことが言えて、ロボットみたいなオリジナリティのない教師は、ひとつに集めてそういう学校で活動すれば良いし、現代に残る珍獣のような人間力を育むことに重きを置ける教師たちは似たような価値観の教師たちを集めてひとつの学校でそういう「校風」のようなものを創ればよいのではないだろうか。とにかく、誰かをいちいち犠牲にするような訳の分からないシステム、平均化をする必要がない。

 寄り道も楽しめない世界になってしまったら世も末だと思っている。昨今では登下校時の「見守り隊」的な存在を担う大人が子どもを殺してしまうなどというもう何を信じて良いのだか分からないような事件まで発生してしまっている。もはや、何をしたところで安全など保証されていないのだ。それなのに「自分の子どもだけの安全」ばかりを追い求める画ばかりに、子ども達の環境はどんどん劣悪になり、不自由極まりない学校生活を送らされている。それでは子どもは育たない。権利ばっかり主張している大人は、子どもを育てることもできないばかりか、自分自身を育てる事も出来ない。

 むしろ、そんなに訳の分からない権利を主張したいのであれば、学校になど通わせずに自分ですべて責任を持って子育てをすれば良いのだ。個人的には、もしも私が子育てをすることになったらそうする事に決めている。こんな今の時代の劣悪な学校という環境に子どもを預けたら、いらぬストレスが溜まるのは目に見えているからだ。義務教育よりも質の良い教育を我が子に与えればそれで、親としての義務は果たせるのだから。

 とにかく、大事な事は、大人自身が社会に出てこそ、勉学に励み、精進していく事。ここから目を背けなければ、モンスターペアレントなどという化け物に成り下がる事は無いだろう。