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原澤出版の執筆用ブログ

10:知識と知恵、「分かる」と「できる」の二枚舌構造について

10:知識と知恵、「分かる」と「できる」の二枚舌構造について

 

 この章の最後に、知識と知恵、「分かる」と「できる」の二枚舌構造について思いっきり語って、この章を終わらせることにしたい。正直なところ、日本の教育のダメダメな部分を書いていたら、かめはめ波を食らった以上のダメージを受けたかのような状態になってしまい、もう二度と、日本の既存の教育については言及したくないというある種のトラウマ状態になってしまった。やはり、語るのであれば明るい未来を創っていくための前向きで建設的な論述をしたいのだが、日本の教育に関して、多くの人達が未だにそれほど危険を感じていないのだから、この気違いが声を大にして叫ぶ必要があると判断したし、今「何言ってんだ、コイツ。」と思われたとしても、何年か経てば世の中は私が言っていることに傾いてくることは間違いない。何故ならば、既存の日本の教育に可能性も未来も何も期待するものなど存在していないからだ。

 時間が経つにつれて教育の質が下がっている理由は、知識一辺倒の教育になったからに他ならないだろう。「知」については「知識」と「知恵」に分類することが出来る。教室の中で席について、あーだこーだと教師たちの講釈を真に受けて身につけられるそれらはすべて「知識」でしかなく、本来社会に出て通用するかどうか、活躍できる人材になる事ができるかどうかは、その人間の持つ「知恵」の部分に集約されている。例えば金山に金でも堀りに行った時に金はその金山の岩の中にほんのちょっとしか含まれていない。そのほんのちょっとの金が「知恵」のようなもので、「知識」というのは、その金の含まれた岩石全体だと考えれば良いだろう。では、その岩石からほんの少量の金を取り出すにはどのようにすれば良いのか?本来は教育の本質はそこにあるような気がしてならない。「知識」からどうやって「知恵」を取り出すのか。そこに学習の本来の楽しさであり、醍醐味が含まれていると私は考えている。前の項で、何故あれだけ集団登下校を批判したのかの理由はここにもある。「寄り道」というその営みが一つの「知識」から「知恵」を取り出す営みになっているからだ。その営みを奪った者であり、組織、機関の罪は大きい。子ども達が「知恵」という金を取り出す術を奪ってしまったからだ。

 「知恵」を身につけるには、多少の痛手であれ、危険を伴う。そんな安全な状態で手に入る「知恵」など知恵でもなんでもない。知恵とはまさに、量子的であり、不確定的な要素の多いものなのだ。そこで、本人が世の中の現象であれ、現実と、自分の身につけた知識を利用して、実際に「人生に使える形」を見つけ出したり、作りだしたりする。これが「知恵」の正体だ。それをただ教室の中で良い子ちゃんをして覚えた「知識」の状態で、どれだけ沢山の「知識」を手に入れていたところで、その「知識」を「知恵」に変えるだけの力がある種の錬金術のスキルを身につけていない人間は、社会に出ると必ず同じ呼び名で呼ばれることになるだろう。その名とはもちろん『頭でっかち』という呼び名だ。『頭でっかち』とは「知識」ばかりはあるけれど、それを「知恵」に錬金できない者の事をそう呼んでいるのだ。

 実際に良い大学を出たところでこの「知識」を「知恵」に変えるための錬金術を教えてくれるわけではないし、学歴に問わずこの錬金術を身につけている者は存在する。むしろ学歴などない者達の方が、この錬金術に長けていたりもする。なぜならば、学歴などというものは「全国どんだけ知識持ってるか選手権」みたいなもので、知識を知恵に変換するという部分は評価する対象になっていないからだ。しかし、皮肉な事に学校という隔離された世界から一歩出た、大人の世界では、「知識」をいくら持っているかなどという事に関しては大した評価を受ける事はなく、「知恵」として世の中で、社会でいかに使えるように、使っていける人間が社会で活躍していく残酷な事実がある。これは時間が経てば経つほど、その傾向が強くなり、もはや今の時代において、学歴などというものはそれほどコスパの高いバッヂではなくなっている現実がある。私が既存の学校教育を馬鹿にしている理由もここにある。既存の学校教育など、ただのクイズ王を日本中で養成しているだけで、特にすぐれた「知恵」錬金術師たちを養成している訳ではないのだ。
 しかし、学校教育において、さらには学習塾が流行るという事は、その某「クイズ王」を決めるイス取りゲームが現在も流行り続けている事を証明している。だけど、学習塾・お受験文化がいくら流行ったところで、その恩恵にあやかることが出来るのはせいぜい、会社に就職するところぐらいまでで、そこから先はどれだけ多ジャンルのクイズに正解できる知識を持っていたところで、『頭でっかち』の人間は、知恵者に勝つことは出来ない。もしも、Kingの称号を得るのであれば、クイズ王ではなく、錬金術王を目指すことをおススメする。それは、時代がどっちの方向に進んだとしても、知恵を蓄えることが出来れば、どんな社会でも通用もすれば、活躍する事が出来るからだ。それこそ、どんな筋力自慢の人間がその「知識」という岩石を保持したとしても限界があるだろう。実際、「知識」と「知恵」の関係も同じことが言える。ハードディスクの要領と同じで持てる量が決まっているのだから、少量の金の含まれている岩石をそのまま保持するという事はいかにも効率が悪く、身動きも取りづらい馬鹿げた状態であると言わざるを得ない。「知識」を「知恵」に錬金することが出来ぬ『頭でっかち』は言ってみれば、このスマホの時代に、昭和の時代の肩にかけるタイプの携帯電話とは呼びづらいあの重そうな移動電話を持ち歩いているようなものだ。もはや、身動きのとりづらいその状態で『頭でっかち』は、忍者の如く身軽な知恵者に指一本も触れることはできないだろう。
 実際、何故いつの時代においても、『頭でっかち』など使い物にならないというのに、この国は幼少期からその「頭のデカさ」ばかりを競うのか。昔は自然もあったし、外遊びをする場所も豊富だったし、コンピューターゲーム以外のおもちゃも沢山あった。今ほど、首から上側しかでかくならないような環境ではなかったため、ここまではおかしな世界にはなっていなかったとも言える。そして学習塾というビジネスがここまで流行ってもいなかったのだから、社会は『頭でっかち』不要論を掲げているというのに、なぜか昔よりも今の時代の方が、世の親たちは我が子を『頭でっかち』にしようと躍起になっている親が多いというのはまったくもって理解が出来ない。
 正直なところ、私と同年代の人間が子どもを『頭でっかち』にしようと躍起になっているのを見て、「こいつら目の前の世界がどう見えているのだろうか?」と不思議で仕方がない。なぜなら、今、どこの分野に『頭でっかち』が重宝される分野があるのだろうか。どこを見渡しても、そんなものは見当たらない。それなのに親たちは、パチスロに狂ったギャンブラー以上に、自分の子どもより『頭でっかち』にするため、金を注ぎ込み、少年時代の貴重な時間を頭をデカくする事だけに目を血走らせて躍起になっている者達のいかに多い事か。昨今では、スマホ持ってない、学習塾に通ってないというこの二つはいじめの原因になる程だから、もう学校というあの狭き箱が、いかにアルカトラズよりも恐ろしき箱であるかは言うまでもない。無実の者達が、とんでもなくくだらない理由によっていじめられるのだから。これからは漢字の読みのテストに「学校」という言葉が出たらふりがなに「けいむしょ」とか「ろうや」と記入しても正解にしてもらいたい。

 世の中を見渡せばサイズはともかく、ドクタースランプアラレちゃんに出てきた学校の栗頭先生のような、『頭でっかち』ばかりで、それこそ『頭でっかち』は「知識」を「知恵」に錬金する方法を知らない。そういう者達はただひたすらその「知識」にしがみついて分かったつもりになって、社会の中で使えもしない「知識」という岩石で弱き者の頭をカチ割りにいく、『頭でっかち』同士の弱肉強食システムの中で、再び『頭でっかち』ヒエラルキーを築くだけで、もはやそれは今の時代においてはただの老害でしかない。ただ『頭でっかち』共の唯一のメリットとしては、薬物もアルコールも不要で、「現実」を見ずに、自分の「知識」に溺れて、現実を見ずにひたすら酔っぱらっていられることかもしれないが、これはだの皮肉であってそんなものメリットでもなんでもない。大事な事は、実際に現実を動かせるだけの「知恵」をどうやって手に入れ、しっかり現実的に、世界をバージョンアップさせるだけの真の実力を身につけていくかであって、社会に出てまで、「知識」をひたすらコレクションして頭のサイズと重量だけにこだわって生きる事ではない。とは言っても、『頭でっかち』の者達は、成りたくてなったという訳でもなく、物心ついていた時には、頭がでっかくなってきて、そのでっかくなった頭の中に詰め込まれた「知識」を「知恵」に錬金して、首の下側に栄養を送り込むことができず、苦しんでしまった被害者とも言えるのだ。

 この『頭でっかち』社会の負のスパイラルをいつ誰が止めるのか?止めることが出来るかは正直難しい。それはこの章で散々述べてきた。ある種一つの国が民主主義と社会主義に分裂したように、「知識主義」の教育と「知恵主義」の教育に二分すれば良いのだ。これからも『頭でっかち』になりたい人間は、既存の日本の教育にすがり、頭の大きさをさらに大きく、誰よりも大きく、アメリカ主義ではないが「デカけりゃ勝ち」「デカけりゃ価値」のような世界で生きていけばよいだろう。

 問題は「知恵主義」の教育環境を提供したくとも、今の時代に「知恵主義」の教育環境が整備されていないという事だ。knowledgeを追いかけることに慣れっこになり、intelligenceを手に入れるための教育が出来る人間が、この日本に現在どれだけ存在するのかは非常に怪しい。「知識よりも知恵」、「日本の既存の学校教育は今の時代にマッチしていない」口で言う事は誰でも出来るし、それこそ頭の良さそうな有能っぽい者達がこの事を最近はブログやSNSなどで意見しているを見かけるようになった。とはいえ、彼らは特に「知恵主義」の教育環境を自ら作ろうとはせず、ただ単に「既存の日本の教育は時代錯誤、ナンセンス」だとDisっているだけで、「じゃあどうしたら良いの?」というアンサーを求められると、またなんかカッコイイ事を言ってるだけで、自らその教育環境を創る者はほとんどいない。特に、子ども達を対象にした「知識主義」の教育環境を創って提供しようという人間はもっと少ない。

 口で言うだけであれば、それは「知識」の領域であり、「分かる」という箱庭で遊んでいる程度の価値しかない。「知恵」の領域、つまり「できる」の領域こそが世界と繋がっているレベルでの価値になるのだから、「できる」の領域で実際にどうやってこの『頭でっかち』教育大好きニッポンの中で、「知恵主義」の教育環境を実際に創っていけるのかという実際はずっと突き付けられていたが、政治家たちが先の世代へとたらいまわしにしている数々の「ツケ」と同じで、この「知恵主義」教育環境の実現も長年ずっとたらいまわしにされてきた。もしかしたら、某「ゆとり教育」も本当はこの「知恵」を身につける為の時間を子どもであれ、家族に提供するためのものだったのかもしれないが、あっけなくその「ゆとり」という時間は、学習塾に通わせる時間へと変換され、「知識」が「知恵」へと錬金される事はなかった。

 私が創る学校嫌いが創る学校は、もちろん「知恵主義」の教育環境を提供する。それがこの章で既存の日本教育をDisりまくった事に対するアンサーだ。「分かる」主義だけでなく、「できる」主義の教育環境を提供していける環境を創れば、確実に日本は変わる。レベルがアップする。その事実が証明されれば日本の教育はひっくり返る。別に連中がひっくり返らなくても、誰もついていく者がいなくなれば、ひっくり返るしかなくなる。それは世界を見ればわかる。社会主義国家が資本主義国家側に近づいたり、ひっくり返ったりしたのと同じようなもので、粘り強くやる必要もあるかもしれないが、時代が後押ししている以上、それほどこちらは粘る必要もなく教育環境はひっくり返る。むしろ、どこまで悪あがきして粘り続けることが出来るかは、『頭でっかち』教育側だろう。

 しかし、そうとは言っても「知恵主義」の教育環境づくりを実践する者達は今現在ほとんどいない。個人で実践する者はいても、これを教育の形として提供する者達はほとんどいない。実際に「天才」とは学校という箱の中からは輩出されない。「天才」は学校の外でつくられる。それはもちろん「できる」という力、「知恵」が備わらない限り、「天才」になどならないからだ。学校でつくられる「天才」はせいぜいクイズ王ぐらいだろう。天才〇〇と呼ばれるような子ども達は、皆学校の外側に出ているし、学校教育になど重きを置いていない。見方を変えれば、学校教育やお受験に躍起になる親の「教育力の低さ」が、子どもを「天才」に育てられない原因であると言っても間違いない。それこそ「天才」とは「天がその人間に与えた才能」であって、おそらく多くの人間がイメージする「天才とは特別な人間」のようなものではない。皆誰でも「天から与えられた才能」は自分の中に備わっていて、それをただ発揮するかしないかだけの事なのだが、学校教育などという「平均化教育」であり、「知識主義」のような教育をすれば、その人間達の持っている「天から与えられた才能」が発揮されることなく、封印され年月をかけて、一番のGIFTの存在を人は忘れてしまうのだ。

 そういった意味でも、「分かる」教育、「知識主義」の教育を私は断固否定する。なぜ、皆「天から与えられた才能」をただ発揮して生きていればそれこそ、アベレージの高い人生を皆が生きることができるというのに、いちいち自分の苦手な事を無理やりやらされてみたり、自分の才能を生かせないハンデのあるレースに参加させられる必要があるのかがまったくもって理解できない。人生とは自分に与えられた「天才」を生かしてそれぞれが楽しく生きれば良いだけであって、本来の教育環境とは、その「天才」をそれぞれが生かせる環境を提供してあげるだけで、人は勝手に育つ。これは、私の好きなRAPであり、ダンスであり、Hiphopの環境がそれを実際に証明してくれている。特に、最近のRAPの世界はまさにそれぞれの持つ「天才」を発揮する場になっていて、もしもあの環境がなければ、くすぶって埋れていたかもしれない者たちが輝いている部隊が提供されている。それは非情に素晴らしい事で、そういう環境をそれぞれの「天才」が発揮されるように環境を用意して提供していけば、人は勝手に自分の持っている「天才」を発揮して、世の中をガンガン進化させてくれるのだ。

 一番よろしくないのは、古ダヌキ共が自分たちの既得権益を保守したいばかりに、このそれぞれの持つ「天才」が発揮されないようなクソ教育を国民に押し付ける事だろう、そしてオリンピック競技でもよくある事で、日本がやたらメダルを大量に獲得するようになると、ルールを変えられてしまうあの状況と同じで、社会はその古ダヌキ共が優位に立てるようなくだらないルールになっているのは間違いない。ここをぶち壊さない限り、本当の意味で日本も変わらなければ、日本の教育も変わる事は無い。

 しかし、今それらをぶち壊すチャンスはやってきているし、古ダヌキ共の権力をもってしてでもその勢いを抑えることができない。古ダヌキ共の権力で人々を自由自在に操ることが出来たのは、インターネットが普及するまでの時代であって、今はもはや古ダヌキ共の密教パワーは薄れているというよりも、ほぼ通用していない。あとは全体のシステムがひっくり返ってしまえば、日本は明治維新以来の革命が起こる可能性すらある。それは、日本の外側からの脅威によって起こる革命ではなく、日本そのものが、生まれ変わるという意味合いでの革命だ。人々が本来持っている個々の「天才」が発揮され、もっと多くの人間が活躍し、輝く事が出来る土台が築かれて提供される時代がやってくるという事だ。本当の意味での「民主主義」の時代が遂にやってくるということだ。

 と、ようやくこの本を書いていて、自分の胸が躍るような事が書けた。もう流れは出来ている。後はやるだけ。それでは、革命の扉を開けることにしよう。