harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

大和魂の研究~はじめに~

大和魂の研究~はじめに~

 

 そもそも"大和魂"について研究する前に「魂って何なんだよ?」という疑問は浮かんで当然だ。よく、人は「魂」というこの言葉を口にしているが、「魂って何?」って聞かれて胸の真ん中あたりを叩いて「ここにあるものだよ。」的なことを言ってはごまかすけど、よく分かってないで使っているのがこの「魂」なのだが、まあ一応あることにして先に進めると「大和魂」ってのは一体何なのだろうか。これは「東京ディズニーランド」とか「松坂牛」みたいなもので、あるひとつのブランド名なのだろう「大和の魂」だから「大和魂」。その他にも「帝京魂」というのはどこかのお笑い芸人がよく口にしていたので聞き覚えがあるが、ようは「魂」には「〇〇魂」というブランドがあるようだ。国で言えば「ゲルマン魂」とか。

 よく、「国産」という言い方をするが、我々の魂は果たして「国産」といえるのだろうか?あなたは、そんなことを考えたことはあるだろうか。私は何度か考えたことがある。アメリカナイズ、西洋かぶれしたこの日本という国において、我々日本人の中に搭載された「魂」は本当に「国産」と言えるのだろうか。

 以前、パソコンが急に故障し、仕事にならないので秋葉原に買いに行ったことがある。私自身ちょっとパソコンの使い方が独特というか、文字の打ち方に癖がある事もあって、同じパソコン、もしくは同じメーカーで出している現存するパソコンの中で似たようなものを探していたのだが、新品同様なのにやたら安いパソコンがあった。しかも見た目は私が愛用していたパソコンと変わらない。型は多少違ったが、文字を打つ勧角なども同じだし、大きさも同じ。それを買うことにしたのだが、おそらく「中身」がすり替わっていたのだろう。そしてその中身は中身として売られていたような気がする。つまり「純正」ではないということだ。

 何が言いたいのかというと、この中古パソコンのように我々の「魂」は「純正」「国産」のものから違うものに入れ替えられたりしてはいないだろうかという点だ。そこには、国の教育というか洗脳というかなんというかも絡んでいたりして、もっと言っちゃえばもはや国であり教育を決めている者達の「魂」自体がもはや「純正」でもなければ「国産」でもない。つまり「大和魂度」の低い魂の者たちになっているかもしれない。

 こう考えれば分かりやすいかもしれない。もしかしたら二十年位経っていたらそうなってなくもなさそうだが、日本国籍は持っているものの、どう見ても見た目は欧米人みたいな人たちが「日本人」を名乗っていたりして、もはや「日本人」とはなんなのか分からなくなる的な。

 これは差別をするための本ではない。だけど区別はするべきだと思う。やはり「大和魂」というのは「日本語」と同じで、日本民族特有の独特さがある気がしてならない。何故、日本は外国人から見て不思議に見えたり、魅力的に見えたりするのか?それは「独特」だからだ。日本語一つとっても独特。その独特の言葉で創った国もやはり独特。ということは、その日本という独特な国で生まれて育った我々日本人が独特でないというのはおかしな話ではないだろうか。

 だけど、昔の日本人は独特だったような気はするが、今の時代の日本人って果たして独特なのだろうか。たしかにかすかに残る独自性というか、独特な部分は時折感じることが出来るが、それはごく少数の人間であって、基本的に今の時代の日本人というのは独特というよりも何か「平均的なもの」を感じないだろうか。「これが日本人だ!」「これが大和魂だ!」という何か強烈な「日本国産」的な何かを、今の時代それ程感じる機会がないと思ってしまうのは私だけなのだろうか。

 文化も教育も食べ物から何から何まで、「日本は危険」というようなレッテルをある時貼られて、我々は「日本純国産」のCPUであれ、エンジンであれを抜かれて、なんだか本来のポテンシャルが発揮できない、不純物の高いそれらに入れ替えられてはいないだろうか。本当の日本人って、本当の日本人の持っている魂って、本当の日本人の持つポテンシャルって。

 そのあたりを主に「大和魂」というコンテクストをメインに、日本であり、日本人を研究していくのがこの本の目的だ。別に何かしらの思想や主義をしたくてこういう誤解を与えやすそうなタイトルの本を書く訳ではなく、純粋に日本国純国産の「魂」の研究をしてみたいという気持ちだけでこの本を書くことにした。正直なところこの本がどういう芳香を醸し出し、どういう方向に進むか分からないが、この自分を生み育ててくれた自国に対して何かしら奉公することが出来たら嬉しい限りで、もしも大和魂が行き場を見失い彷徨しているのであれば、なんとか見つけ出してあげたい気持ちが強いし、もしそんな大和魂を見つけ出したら全身全霊で抱きしめて咆哮したい気持ちもある。そんな日本孝行オヤジが一発チャレンジするための一冊で御座います。

 

 原澤祐介(大和魂研究家)

2冊目 大和魂の研究について。

2冊目 大和魂の研究について。

 

1冊目"自分"を最大限生かすための人生戦略を、
今出版すべく校正というか編集中なのと、

書き終えて疲れが出たのか、やり切った感が出たのか分からんけど、

なんかぐったりした部分があって、ここ2,3日執筆する事はやめてましたが、

今日から再開しようと思います。

 

2冊目の本のタイトルは

 

大和魂の研究

 

です。

 

何故、このタイトルにしたのか?

 

ノリです。ただそれだけです。

正直なところ、1冊目と違ってノープランです。

1冊目も結構ノリで書きましたが、

あれはすでに自分の中にあるものを吐き出しただけなので、

労せず書けましたが、

 

今回はそうは問屋が卸してはくれない気がします。

そもそも「大和魂」ってなんなんだよ。って話だし、

 

今回のタイトルは最後の最後まで

「研究」にするか「探求」にするか迷いました。

 

まあ探求するってのもおかしいっちゃおかしいっていうか、

日本人なら、自分の中に搭載されてるのが、

大和魂」ですからね。

 

ということで「研究」してみましょう。大和魂

さて、どうなることやら。

"自分"を最大限生かすための人生戦略~さいごに~

"自分"を最大限生かすための人生戦略~さいごに~

 

 はじめて本を書いた。書いてみて分かった事。それは、「それほど大変ではないんだな。」って事だった。しかも今の時代、本は誰でも出版できる。とんでもない時代になったもんだ。

 私はこの十年間以上ブログを書き、メルマガを書き、何らかのイベントを開催するたびに三万文字レベルの資料を何度とともなく書いてきた。その中には「明日死ぬとしたら何を書く?」という問いを立てて、号泣しながら書いたなんて言う曰くつきの資料もある。その数年後、再度同じ問いを立てて、書ききった後、数日体調が悪化し数日寝込んだなんて事もあった。だけど、それらと今回書いた本は何かが違う。

 正直なところ、この本がどのくらいの人達に読まれ、どういう評価を得るかは分からない。おそらく、悪評がつくどころか誰にも相手にされないようなそんなさみしい感じの本になるかもしれない。その可能性が高いかもしれないが、むしろそれでも良いと思っている。

 その代わりと言っては何だけど、それこそ私が死んで、まだこの本を誰かが手に取ることができる状態であったとしたら、この本の内容は良い意味で評価されている自信がある。「子ども時代の自分に向けて書いた」つもりで書いたけど、結局は今の自分に向けて書いてしまった感がある。それこそ子ども時代の私がこの本を読んだところで何を言ってるのかさっぱり分からないかもしれないし、「自分は大人になると頭がおかしくなっちゃうんだな。。。」と落胆する姿を披露してくれるかもしれない。そんなもん披露するぐらいなら、書ききった未来の自分を慰労してくれよと思うが、まあ仕方がない。なんかとんでもない方向に進んでしまったので。。。

 本来はもうちょっと一般ウケしそうで、テクニカルな内容を書いて、「これは素晴らしい!」と絶賛されるような内容を書くつもりだったのだ。だけど、書いている内にそれこそ私はその想いというか下心と"バトる"局面に出くわすことになる。

 どんなにあざといペテン師も、自分に嘘はつけない。とはよく言ったもので、これだけブッ込んで書き続けたそれらのメッセージを自分が回避することは出来ず、そのメッセージに従って自分に嘘をつかずに素直に書いた結果がこの結果になった。

 「お前何言ってんのか分かんねーよ。。。」っていう内容になってしまったかもしれない。だけど、しょうがない。これが書きたくなっちゃったんだから。そしてこれを機に私の執筆活動は加速していく事だろう。今回は、

 

もしも、人生で一冊しか本が書けなかったら、どういうタイトル、どういう内容の本を書きますか?

 

 という問いに対してのアンサーとして、この本を執筆してみたが、次からはもっと気楽に行くつもりだ。正直なところ何冊本が書けるのかチャレンジしてみたくなった。それこそ、この執筆活動自体が私が今現在考えるひとつの領土ゲームの参加方法でもあるのだ。私の書いた本に賛同してくれる人たちが集まってくれれば、そこに新しい領土が出来上がる。もしそうでないときは、再び自分の元々あったはずの領土の回復のために"将軍"や"軍師"たちと頑張っていけばそれで良いのだ。

 正直なところ、この本がどんな人たちに読まれ、どんな展開を生むのか予想が出来ないし、結果どうなるのかを観るのが楽しみでしかない。おそらくこの世界の"設計者"も、こういう気持ちでこの世界や人間を設計して創って、どういう展開になるのかをただただ観て楽しんでいるだけなのかもしれない。少なくとも私の執筆家としての船出であり、新大陸発見の航海であり、領土ゲームについては、時間が経てばどういうことになっているかが分かる。もちろんこの本に書いた"自分"を生かすための人生戦略を用いて、領土ゲームを攻略する自信はある。それでダメならば何度でもバージョンアップを繰り返し、挑み続けるだけだ。

 「"バトる"哲学」はこれからも進化し続ける。それこそこの世界のベクトルが「進化」の方向に向き続けている限り。四十にして惑わずなんていう人生はつまらないので、四十になったら始終"バトる"ぐらいの悪ノリブッ込みLifeに思いっきり興じてみたい。小さくまとまるぐらいなら、打ち上げ花火のように一発ブチかまして大きく散りたい。宇宙から見たら、我々の一生などせいぜい打ち上げ花火一発分ぐらいの程度なのだろうから。

 

原澤祐介

10:最後に"バトる"のと"悟る"のは何が違うのか?について語る

10:最後に"バトる"のと"悟る"のは何が違うのか?について語る

 

 この本も最後の項になったが、正直"悟り"の方向に進めばもはや述べる事は無いし、述べれば述べるほど、それこそお釈迦さまに無言のDisをアンサーされるネタを提供するだけで、それこそまだ微笑まれてればいいけど、ふつーに寝たりされたりするかもしれない。"悟り"ってのは、言うだけなら簡単なので、説明してしまうけど、

[悟りって何?]

  1. 自分の内側の世界で幸せ感じてりゃそれでいいんじゃね?
  2. どうせこの世界は内側も外側もないんだからさ。
  3. 嬉しいとか悲しいとかっていうそういう感情はただの錯覚でしかないんだし。
  4. 悟るってのは何かを得るっていうか、ただ「味わう」ようなものなのさ
  5. 観察と味わいの世界。それが悟り

 こんな感じだろう。もちろんこれが"悟り"について的確に説明できていないかもしれないが、大方こんなようなもんだ。別にお釈迦さまの言いたい事など的確だろうがそうじゃなかろうが、「何もない」って言ってるんだから何が的確かだって関係ない気がするし。そもそも「何もない」的世界観を言葉で説明している自体に無理がある。それこそ、お釈迦様の弟子の誰か様のように、立ち上がって何もせずにニコッと微笑む方が、「"悟り"って何なのかYou達言ってみ?」っていうお釈迦さまの問いに対する回答に対しては的確であることは私自身、疑問も否定の余地もない。だけど、この世界はどうなったかっていうと、世界中の人々が立ち上がってただ「ニコッ」と微笑んでいるような世界にはならなかった事実がある。

 それこそ、ガラの悪そうな不良が通うような風紀の乱れた中学校、高校のようにお釈迦さまの教えなどそれこそオシャカにされて、それからというもの自国内で殺し合うわ、次は他国の連中と殺し合うわ、金品は奪い合うわ、領土は奪い合うわという、立ち上がってただ「ニコッ」と微笑んでいるような世界とはほど遠い、似ても似つかない世界が、我々の外側の世界には広がっている。もちろん、それでもお釈迦さまは「どうせ何もないんだから、いいのいいの。」とどこかの全宇宙を統治する王様のように言ってくるかもしれないし、ただニコっと微笑んでいるだけかもしれない。

 だけど、やっぱり不思議なのは、皆が立ち上がってただ「ニコッ」と微笑んでいるような世界が我々の目の前には出現しなかったこれは一体何なのだろうか?それこそ、人々は「"悟り"最高!!」という世界を追いかけもしなければ、欲しもしなかったのだ。それこそ、この世界は生命の危険性の有無に関係なく、"悟る"のではなく"バトる"方向へと進み、今の世界を創り上げた。

 これは、本当にたまたまなのだろうか。「何にもない」だとか「なんでも良い」という空気の中で、たまたまこういう世界が作られたのだろうか?個人的には、私はそうは思わない。やはり"設計者"は意図を持たずにこの世界を作ったとしても何らかの「ベクトル」ぐらいは指示したような気がしてならない。つまり、"設計者"に、「"悟る"のと"バトる"のどっちかって言えばどっち?」と質問すれば、答えない可能性が一番高そうではあるが、やはり"バトる"方と答える気がしてならないし、この世界の結果が"設計者"からの答えだとすれば、その答えはやはり"バトる"方が正解だったという事になる。

 正しい間違えているというよりも、これは「ベクトル」なのだ。それこそ太陽が東から昇って西に沈んでいく事にいちいちクレームをつけてもそれこそ何も意味がないというよりも無駄でしかないのと同じで、宇宙のベクトルは"悟る"のではなく、"バトる"方向を向いているのが事実なのだと思う。そうでなければ、もうとっくに皆がお釈迦さまのようになっていたはずだし、それを平和と呼ぶかどうかは別として「争いごとのない世界」が我々の目の前に出現していたはずだ。だけど、そんな世界は我々の目の前には出現していない。むしろ、世界は大分平和な芳香を漂わせているようにも思えるが、何かきな臭い臭いもしているような気がしてならない。

 それらは過去の歴史から学べば、そして「歴史は繰り返す」というフラクタル構造から考えるのであれば、善悪という価値基準とは関係なくしょうがなく起こり得る事のようにも見える。そして、私自身は何故、人は"悟る"方向には進まず、"バトる"方向に進んでしまうのか?その原因は人間自体の設計というか仕様がそういうベクトルを向いているからだと思っている。いくらお釈迦さまが弟子の前たちでただ微笑み、その弟子たちがそれらを人々に伝えたところで、大して広がらずに、"バトる"世界の歴史を常に更新し続けているのは、誰か影響力のある者達が裏で牛耳ったとかそういう面白そうな話ではなく、ただ「人間がそういう作りになっているから」という単純な理由に他ならない気がするのだ。

 それこそ、基本的に我々は心臓の鼓動を自分の意識で自由自在にコントロールできないし、内臓においても同じことが言えるし、血流であったり、細胞に至るまで意識的にコントロールすることができない。人間が生まれて成長し、そして衰えて死んでいくまで、その「自分の意志ではコントロールできないそれら」は、どれだけ"何もの"かと"バトる"という営みを繰り返し続けているのだろうか。それこそ、体内に外敵が侵入した時に、お釈迦さまの体内の細胞であれ、免疫システムは「ニコッ」と微笑んでそのまま立っているのだろうか。そこについては確認する事は出来ないが、普通に考えればその状況下においてお釈迦さまの体内では"悟る"のではなく"バトる"方向で世界が動いている気がするのだ。

 それが「ベクトル」なのだ。生命のベクトルとは"悟る"方向を向いていない。そもそも"悟る"方向にベクトルが向いているのであれば、人間そのものの存在意義など本当に何もない気がする。そして、いちいち赤ん坊から大人に成長して、今度は衰えて死んでいくなどというこのシステムについても意味が分からなくなってくる。それこそ「どんなときもどんなときも、"悟って"ニコッと健康家族」的なCMでも流すのだろうか。

 "生命"というコンテクストを宇宙の視点で見てみれば、それはリレーの襷渡しのように見える。我々は先人たちの生命のバトンを受け取って、また後世の者たちへとバトンを受け渡していく。それ以上でもそれ以下でもないのかもしれない。では、その"生命"のバトンリレーを繰り返すうちに、この世界はどうなっていくのだろうか。数千年を経て、今我々はこのような世界を作りあげた。それが正解不正解に関係なく、「人間とは何か?」という問いに対する答えなのだろう。

[お釈迦様以降人間が辿ってきた歴史を見る限りでは・・・]

  1. "悟り"?どっちでもいいんじゃね?だけどまあ心身健康な方が良いっちゃ良いよね。
  2. "バトる"ことから逃げたらさ、この世界ってバージョンアップしないじゃん。
  3. 我々が"バトる"事を辞めないのは、まだまだ進化する可能性を信じているからさ
  4. だけど、命を奪い合うのは良くないよね
  5. もっと言えば、人間だけでなく地球に存在する仲間達とも共存したいよね
  6. そういう意味で、みんなでニコニコしていたいよね。
  7. だけど"バトる"ことから逃げたら、それは神への冒涜じゃないのかなって気がするけどね。
  8. だって、我々そういう仕様になっていて、長年"バトる"ことで進化し続けてきたんだから
  9. もしかしたら、退化しちゃった部分もあるかもしれないけどね。

 

 こんな感じではないだろうか。個人的には、何回お釈迦さまのいたところからコンティニューしたところで、結果としては今の世界と似たり寄ったりになる気がする。もしも異世界的な結論を得るためには、人間自体の設計であり、仕様自体を変えない限り無理だと予想している。

 そして"バトる"というここについて、人は臆病になりすぎているのではないだろうか。それこそ前項で述べた「自動ブレーキ」システムと同様に。進化する事は楽な事ではない。それこそ、もしかしたら立ち上がって「ニコッ」としていた方がよっぽど楽かもしれない。だけど、風は「進化」という向きに吹き続けているのだ。流れに逆らわずに進むのであれば、やはりそれは"悟る"のではなく"バトる"しか方法がないのではなかろうか。何故ならば、"バトる"、つまり弁証法的に何かと何かをぶつけて止揚していくしか進化のしようがないからだ。

 "悟る"のか。それとも"バトる"のか。もちろん各人がそれらを選択すればそれで良い話であるというオチについては否めないが、"設計者"が、我々人間に"設計者"ですら持っていない「ある可能性」という種をを蒔いたのであれば、それは"バトる"というこの進化システムをとことん繰り返し続けた先に、"設計者"ですら知らない領域であり、世界が用意されているかもしれない。そんな可能性が0ではないと信じたいが、これは私自身の都合の良い世界観であることは否めない。

 いろいろ考えたところで、もし正解に辿り着いたとしても、少なくともそれは我々の代ではない事も間違いない。ただのバケツリレーの真ん中辺で、バケツを隣りの誰かに渡すぐらいの役割でしかないのかもしれない。だからこそ、この時代に思いっきり迷惑が掛かったとしても、世界を派手に塗り替えるチャレンジに興じても良いのではないだろうかという呼びかけが、同じ時代を生きている者達に私が発信する唯一のメッセージだったりする。

 それこそ、どこかで"設計者"が我々をずっと見続けて「あの時代のあいつらはヤンチャな連中が多かったなー」と評価されるのと、「ん?そんな奴らいたっけ?地味すぎて忘れちゃった。」と評価されるのだったら、大したことないのかもしれないけれど、皆で"設計者"を一瞬でもドキッとさせられたらそれはそれで楽しいんじゃないのかなと。

 まず、お釈迦さまやキリスト・孔子やその他ちょっといるかもしれないけれど、ここ最近歴史に残るような人物っていない。それは「出来上がっちゃったからだ」と決めつけて先人たちのやってきたことを見習ってお行儀よく生きても良いのかもしれないけれど、某大国のように何事にも左右されない自由なパラダイムで、この世界をドキドキワクワクさせたのと同じようなチャレンジをしても良いのではないだろうか。それこそ、かつて「自由の国」と人々のあこがれの的だった国も今となっては「常識」だったり「しがらみ」だったりが出来上がってしまい、あの時の輝きなど放ってはいないことだろう。

 新大陸は「自分の外側の世界」にもうなかったとしても、我々の内側には無限に広がっている。「自分の外側の世界」をいじり尽くしてしまった今だからこそ、それこそ、お釈迦さまが「こっちの世界もええでー。」と呼びかけた自分の内側の無限なる広がりを持った世界を開拓しまくるフロンティアスピリットを、先人達以上に発揮して新時代であれ、新世界であれ、制約に左右されない中でどういった面白い世界を創り上げることができるか少なくとも、私自身はチャレンジする事にする。そういう事で、私は"悟り"の世界において、"バトり"の流儀で暴れてみたい。もちろん罰当たりだとかどこかの"大人"たちに怒られるかもしれないけれど、宇宙から見ればまだまだガキ盛り。とにかくこの世界を遊び尽くすためには、まだまだこの程度じゃ飽き足りない。

9:新大陸を自分の領土にしていく方法について~実践・領土ゲーム~

9:新大陸を自分の領土にしていく方法について~実践・領土ゲーム~

 

 新大陸を自分の領土にしていくには?まず、領土には3つの条件が合った。それが1領土2国民3主権の3つの要素だ。実際に新大陸の発見の方法はそれほど難しくなかったりする。それは何かというと、"軍師"と一緒にひたすら仮説を立てて、対話を繰り返すことによって新大陸は見つかる。その「仮説」という新しい土地に、国民が根付き国として統治されていくかどうかが問題になる。不毛な大地に人がよりつくことはまずない。

 そして、現在暮らしている国よりも主権が魅力的ではない見ず知らずの土地に、人々が移動してくることも考えられない。何故、当時イギリスからあんなにも新大陸へと移動していったのだろうか。もちろんこれだけが理由ではないが、過去住んでいた国や大陸にはない「新しい何か」があったからだ。なかったとしても「期待する新しい何か」は確実にその人々の脳内の世界には存在していた事だろう。何もないだけにもしかしたらその「主権」そのものを移動していった者達で創り上げていったのかもしれない。

 そもそも、歴史の浅い某大国が何故世界の覇権を握る事が出来たのだろうか?おかしな話である。それこそポッと出の新人が、一気にチャンピオンに成り上がって世界を牛耳ってしまったようなお話なのだから。それは、むしろ「歴史がないから自由に国を作る事が出来た。」とも言えるだろうし、「しがらみがなかったから自由にできた。」とも言える。ここにも領土ゲームを制するためのキーワードは"自由"であるのではないだろうかというヒントが浮かび上がってくる。制約があればあるほど、国も人も育たないと予想できる。これについては、某大国だけに見て取れる結果ではなく、日本国内においても発展している「何か」は、常に「自由で、そんなに何かのしがらものない制約のないもの」である事が多く、むしろ、歴史にあるような「何か」については、いくら自由に制約なく改革を進めたところで、ほとんど失敗の一途を辿ることになっている。

 本来は本気で何かを変えたいと思うのであれば、ポーカーゲームなどで手持ちのカードをすべて捨てて交換するかのように、「全とっかえ」をしてしまえば良いのだ。良くも悪くも、その世界は大幅に変わる事だろう。個人的にはこの「全とっかえ」によって悪い方のベクトルを向いて進んだケースを見たことがない。その反対に旧体制をニギシメて、衰退の一途を辿ったケースは枚挙に暇がない。

 新大陸の最大のメリットは、「歴史に左右されない」というここにある気がしてならない。世の中を変える三大要素は1よそ者2若者3馬鹿者などと言われているが、まさにそれは「その土地の歴史に左右されにくい存在」であるからだ。つまり「常識」であり「当たり前」に左右されない状態にある者と言える。

 ここでもう一度自分自身に問いかけてみよう。「自分は何らかに左右されていないか」と。過去の自分であれ、"大人"たちが積み重ねてきた常識という歴史であれ、まわりの空気であったり、自分の外側の世界に存在するものの中には、いろいろと自分の人生を左右してくれる邪魔者候補生達が数多く存在している。だけど、それを邪魔者とするかしないかは、それらの影響力ではなく、自分がそれらに左右されてしまうような弱い人間であるかどうかでしかない。他人に何を言われようが、まわりから後ろ指をさされようが、それこそ石を投げつけられたとしても、気にしないだけの強靭な精神を持っているかどうかが問われているだけで、別にこの世界というゲームにおいて、どれだけすごいとんでもないハンマーブロスみたいのが複数出てきたとしても、それ以上に自分が強靭であればそれで良いし、それが面倒くさければ誰もいない新大陸を発見して、魅力的なそれこそ人々が移民したくなるような魅力的な何かを作りさえすれば、人は集まってくるのだから、その何もなかった土地は魅力的な領土へ変貌し、領土を治めるあなたにとっても、集まってきた国民達にとっても幸せであれ、豊かさを提供することになる。

 新大陸を発見し、その土地を魅力的な領土にするためには、あなた自身が魅力的な人物である必要があるという事だ。それこそ、何にも左右されない状況下において、何をやっても良いというのに、人々に魅力的な何かを発進する事も提供する事も出来ないのであれば、そもそも領土ゲームに参加したところで何か特別なものを得る事は無い。

 もちろん、はじめはそれでも良い。何の制約のない新大陸において、自由に自分の主権によって自由気ままに国を創ってみれば良い。そこに人々が集まって来れば、あなたは自分の領土を拡大する事に成功したということになる。それを繰り返すことで、あなたの領土はさらに強大なものになっていく。「自分の外側の世界」においても、あなたの存在感は強大になっている事だろう。もちろん大きければ良いというものでもない。あなた自身にとって理想の領土を作り、統治して行けばそれで良い。

 では、最後の問題であり、関門になるのは言う間でもなく、魅力的な人間になるにはどうしたら良いか?ということだ。もちろん、ここにおいても大活躍してくれるあなたにとっての最強の同胞は"将軍"であり"軍師"の両者である。この2人はあなたを裏切ることがない。あなたが裏切ることはあっても、"将軍""軍師"があなたを裏切る事は無い。徹底的に自分を世界を疑い、徹底的に自分と世界と対話していく事で、あなたの人生の純度は輝きを増していく。それらは言い方を変えれば「可能性を徹底的に信じる」ということだ。

 「自分の外側の世界」にある商品たちで考えればそこについては想像しやすい。自動車にしても携帯電話にしても、あれらが日進月歩の勢いで進化し続けているのは、やはり"将軍"と"軍師"の活躍によるところが大きい。もしもこの2人がいなければ、どのようなものも、それほど進化していない事だろう。新しい技術は、良くも悪くも"古きもの"を踏み台にして弁証法的に進化する。そこには「疑い」「対話する」というこの両者が介入しない限り、この世界の中でバージョンアップを果たし続けることは出来ないだろう。

 これは人間にとっても同じで、誰かが「できる」と信じて挑み、過去の世界記録を更新する事にコミットしチャレンジしない限り、それらの世界は更新されない。そして誰かがその古い世界をぶっ壊してくれたら、後続の者たちも新しい世界をそれこそ当たり前のように受け入れるのだ。

 この世界はそうやって更新されてきた。いつの時代もその時代において「そんな事は無理であり、チャレンジする事自体が無駄。」と非難されてきたことに、それこそ「世界の良識・常識」に左右されずに立ち向かい続けたことによって、「自分の内側の世界」も「自分の外側の世界」も地図を書き換えてきたそれこそ歴史がある。おそらく「そこに意味はない」のかもしれないが、実際その地図を書き換え広げてきた先人たちの偉業に対して「だけど結局は意味ないんだけどねぇ。」とか偉そうに私は言いたいとは思わない。もし意味がなかったとしても、それらの世界地図を書き換え広げていく事に意味を自分で持たせれば良いと思っているし、それについてお釈迦さまが鼻であしらおうが、"設計者"がまったくもって評価をしなかったとしても、気にせず世界地図を書き換えるためのチャレンジをすれば良いと思っている。もちろん"設計者"がそれらについて賞賛してくれる可能性もある。「振り回されずに振り回される」「振り回されながらも振り回されない」そうでなければ、それこそこの世界を作って、我々をジェットコースターやらお化け屋敷やらに入れて楽しむ必要もないのではないか。

 もちろん、"設計者"本人にその意図を聞かなければ何が正しいかなど分からず、結局のところは自分の内側の世界にいる"神さま"にでも「そこんとこどーなのヨ?」と聞くぐらいが精いっぱいだろう。もちろん詰まる所それらは自己満足の領域から出ることは出来ない。

 とは言え、それらがやはり無駄であるとも言いきれず、自分をとことん磨き揚げることで自分自身の人生の純度にしても生命力にしても輝きを増すことは間違いないのだ。もちろん、"設計者"は河原の石ころにも何億円もするダイヤにも同等の価値を与えたであろう。しかし、1-1のクリボーと8-4のラスボスクッパでは我々にとっては価値が違うし、自分の人生においても"石ころ"バージョンの自分の人生と、"ダイヤ"バージョンの自分の人生ではやはり価値が違う。

 と書いたところで、お釈迦さまが言うように「別に。。。」という事なのかもしれないが、もしもあなたが"ダイヤ"バージョンの人生を望んでいるのに手に入らないのであればそれはおかしな話だとも言える。「なんでも良い」のであれば、何を選択しても良いのだ。それなのに何かが選択できないというのは何かがおかしい。もちろん自分の外側の世界の"ダイヤ"を追いかければ追いかけるほど、おかしな方向に進むことは多々ある。だけど、逆に言えば「自分の内側の世界」で、"ダイヤ"を選択できない状態というのは何かがおかしいのだ。それこそ何らかの「制約」を自分のどこかは受けてしまっているのだ。A~Zまでのタイプ、それ以上の無限のタイプの「自分の人生」のバージョンをそれこそ自由自在に選択できる状態での「なんでも良い」と、3つしか選ぶことができない不自由な人生の純度における「なんでも良い」では同じ「なんでも良い」であっても何かが違う。それは詰まる所同じだったとしても、何かが違う。

 そしてお釈迦さまが「詰まる所なんでも同じ」の領域に達していたとしても、私自身はその先にある何かを見つけ出してみたい。それが見つかったとしても「詰まる所なんでも同じ」だったとしても、この世界の世界地図は徹底的に書き換えてみたい。だって、それを繰り返すうちに"設計者"の何かがその更新された世界地図の中に見キレてくる可能性だってあると思うし、ある世界とない世界のどちらを信じても良いのであればある世界を信じてチャレンジし続けてみたい。それが誰でもできるようになったのが新大航海時代であるのだろうから、やはり人間として生まれてきてしまった以上、どこまでこの世界地図を書き換えていくかに挑み続けていきたい。

 この「新大陸」は、人の数だけ存在しているしももっと言ってしまえば人の数以上に広大な土地が用意されている。それならば徹底的に領土ゲームを楽しめばよいのだ。お金がないとか、時間がないとか関係ない。そんなものはこの領土ゲームをとにかく楽しめば、スーパーマリオをプレーしていれば勝手に貯まっていくコインと同じで勝手に貯まっていく。そのコインを集めるためにいちいち何かに時間を割くことはナンセンスなのに、それこそ何かの「制約」に左右されて、自分の人生の純度であり生命力であったり、自分の手持ちの領土を自ら削っていくような自虐的な人生戦略に身を投じていく。それは緩やかな自殺を行っているようにも見えなくもない。

 この世界に意味はない。ならばなおさら、自分自身で自分が「何のために生まれて何のために生きるのか」についての答えを自分で決めて生きなければ、それこそ生きていても生きていなくても同じような純度の人生しか出現しないのだから。

 とにかく失敗など気にせず、ひたすら新大陸で自分なりの領土統治をしてみよう。そんなに時間などかからずに、あなたの創った新しい国は誰かに認められ受け入れられて立派な領土へと発展していく事だろう。

8:脳内プリズンブレイク~同胞達ヲ解放セヨ~

8:脳内プリズンブレイク~同胞達ヲ解放セヨ~

 

 さて、あなたは無事船出することができたであろうか。もしも未だに船出する事が出来ないのであれば、なんらかの問題が生じているのだから、あなたの抱える"将軍"と"軍師"と共に、今いる場所でひたすら、「当たり前」を疑ってみたり、何かしらの仮説を立ててはそこと向き合って、新大航海時代への参加者として名乗りあげてもらいたいと願うが、それらは誰かに命じられたところで「自分の人生を生きている」とは言いづらいので時間がかかったとしても自分なりのペースで進めばそれで良いのだ。

 では、船出をする事が出来たあなたはどうだろうか。順調に航海は進んでいるだろうか。もしかしたらそれこそ航海した事を後悔したくなった者もいるかもしれないが、それこそ"も"「在る」の世界という眼鏡で世の中を見てみれば良い。そうすればそれこそ爽快な気持ちで航海を楽しむことが出来るし、自分のこれまで生きてきた世界の場外を豪快にハイリスクに冒険しまくればそれで良いのだ。なんといったって、生命の危機はなく、あるとすればそれこそ、一線越えられない野次馬共から指をさされて笑われるぐらいなのだろうから。そんなのをいちいち気にしていたら、それこそ何もできなくなる。それに、その場面において動いているのはあなたの心でしかなく、別にまわりが両手をパンパン叩きながらあなたを笑顔で見つめていたとしても、それが本当にあなたの事をバカにするために手を叩いて笑っているとは決まっていない。もしかしたら、あなたの事を祝福して手を叩き笑顔でいるかもしれない。つまり、それを「ソレ」と決めているのは、あなた自身の心でしかないということだ。これはひとつのテクニックかもしれないが、もしもまわりの人間があなたを笑い者にするために両手を叩いて笑っていたとしても、あなたは「あそこにいる人たちはこんなにも私の事を祝福してくれているのか。。。」と勝手に思い込めばそれで良いのだ。自分の外側の現象がどうであろうと、あなた自身がどう受け止めるかでしか、あなたの世界は構成されないという事を忘れてはいけない。

 "将軍"と"軍師"をお供に、見事自分の"旗"を揚げて、大航海へと旅立ったあなたは、すんなりと新大陸を発見できたであろうか。もちろんそういう猛者もいるかもしれないが、ほとんどの者は元の場所へと押し流されたのではないだろうか。そういう時はもう一度「自分の内側の世界」の自分の元からある領土を見つめ直してみよう。

 すると、自分の本来の領土が"何もの"かによって奪われていることに気づくだろう。それは言い方を変えれば1章で説明した「傀儡の操り紐」という存在だ。それらによってあなたの領土は本来の広さを保持していなかったり、自国の同胞たちは奴隷として囚われの身になっているため、あなたという国そのものの領土の力を発揮することができていないのだ。航海が難航しているのであれば、それこそ自国内の領土の回復に目を向ける必要がある。これは「領土の奪い合い」ではない。ただ元からあった自分の領土を自分のものへと取り返すだけだ。いじめられたからと言って、いじめられっぱなしになっていては「自分の内側の世界」における領土は"何もの"かによってどんどん削られていくし、それこそあなたという存在そのものが、「自分の内側の世界」においても、「自分の外側の世界」においても奴隷のような人生を送ることを虐げられる事になる危険性が高い。

 まず、我々人間は生まれた時はまさに無防備であり、幼少期、少年期も多少の防御力はあるかもしれないがそれでもどちらかというと無防備な状態なので、その十年余の時間にいろいろと自国内の領土は"何もの"かによって削り取られていく。まさに、敗戦当時の日本のように削り取られる必要のない領土まで奪われてしまったアレと同じようなものだ。「自分の世界」というコンテクストにおいて、自分の世界を自分以外の"何もの"かに奪われる必要も筋合いはないし、そもそもその領土はあなたのものなのだから、取り返したければ勝手に取り返せばよいのだ。もちろん、金を誰かに貸したあの状態のように、何故か貸してしまうと、立場が借りている側の方が強気になってしまうようなあのような状態になっているのは否めないが、それでもその"何もの"かに削られた領土自体はあなたのものなのだから、取り返しても何ら問題がない。そして、それらを回復させないと、例の大航海時代のチャレンジに失敗し続け、それこそ大後悔という事態を招くことになる。

 では実際に、ダメージを負った自国の領土を回復させ、囚われの身になった同胞達を助け、解放していくにはどうすればよいのか?そこにももちろん"将軍"と"軍師"の力を借りて領土を回復させていく事になる。

 まず、そもそもの自分の領土をあなたは「あの領土は本来自国のものだった」という認識すら忘れていて、現在の形であり広さの領土を「自分の本来の領土」と勘違いしている可能性がある。「当たり前」という毒によって。まずは、「本来の自分の領土とはどの程度のものなのか」を思い出す必要がある。そこに関しては自分のこれまでの人生を、"将軍"と共にひたすら疑っていく必要がある。「この時代に、私の領土は甚大なダメージを負ったのではないだろうか?」と。

 それは両親の教えかもしれないし、学校の教師の心無い一言かもしれないし、友達や先輩によるなんらかの押しつけかもしれないし、自分は違う考えなのに、まわりの考えに迎合してしまったその瞬間なのかもしれない。それこそ、まわりから笑い者にされたくないという一心で、領土と同胞たちが"何もの"かの手に渡ってしまったかもしれない。一度自分以外の手に渡ってしまった領土を取り返すために必要なのは、決して戦って奪い返す事ではなく、ただ交渉の席について交渉をすればよいのだ。実は、あなたが領土を回復させるためにあなたの向かいに座っている交渉相手は、元はあなたの領土にいた者なのだから。言ってみれば、その交渉相手は過去の自分そのものかもしれない。

 むしろ、「自分の領土の回復」に必要な事は、「そこが元は自国の領土だった」と思い出すだけでほとんど問題は解決しているようなものなのだ。もし「自国の領土の回復」において難しいのは、「そこが元は自分の領土であった」という事を思い出す事であって、交渉に関してはそれ程難しい事ではなく、あなた自身がその交渉の席に座った時点で、奪われていた自国の領土に関しては回復したのと同じだ。

 しかし、年数生きていれば生きているほど、自国の領土は削られてやせ細ってしまっているし、一気にその削られた領土を回復する事は難しく、それこそ"将軍""軍師"とどこに元は自分の領土であったかを探していく必要がある。

 その為のヒントは「今現在における自分」に他ならない。今の自分を注意深く観察すれば、元の自国の領土の状態を思い出していく事が出来る。例えば「人前で話すことが苦手」という状態の人がいたとして、本当にその人間は元から「人前で話す事」を苦手としていたのだろうか?それこそ何もないのに何かが苦手になったり好きになったりするというのは不思議な話で、やはりそれらに何かしらの「原因」が存在していて、現在の自分を自分たらしめるために牽引しているとも言える。

 「ある事がどうしても許せない」という者に対しても同様で、その「許せない想い」が急に自然発生するという事自体がオカルトチックな現象だとしか言えず、やはり「それがどうしても許せない」という自分へと導いた原因が、過去のどこかしらに存在していると予想した方が健全であるし、間違いなくその原因はどこかに潜んでいる。それらを「自分の性格」だとか「自分の人格」だという「当たり前」という先天的要素として何も疑わずに受け入れてしまう事で、あなたの「自国の領土」はみるみる内に"何もの"かに脅かされ削り取られていったのだ。

 あなたが、本来の自国の領土を取り戻すためには、「本来の自国の領土はこんなにやせ細っていなかった」という疑いを立てる事だ。つまり"将軍"にその件について自国領土回復作戦を命じる事だ。もしも、あなたが「今の自分」を「元から自国の領土はこんなもんだった。」と思うのであればそれはそれでしょうがないし、もしかしたらあなたの「自国の領土」はそれほどダメージを受けずに、健全な状態を保てている可能性もある。

 そうであるかどうかは、例の大航海へと船出してみればすぐに分かる。それこそ、船出する事すら躊躇して出来ない者など言語道断で、自国の領土が著しいダメージを受けて完全にやせ細ってしまっている状態にある。「自国の領土が健全な状態」とは、言い換えれば「何でもできる」という状態なのだから、それこそ口だけで、行動に移せない者の「自国の領土」の状態が健全である訳がない。それこそそのような人間は、"大人"たちから上手に教育をしていただいた、優秀な傀儡でしかない。もちろん優秀すぎて、自分自身が傀儡にされて操られていることにすら気づかない可能性の方が高い。

 では航海には出れたとして、なかなか新大陸を発見できず、元の港へと押し戻されることが多いとしよう。そして何度やっても同じようなところで押し戻されてしまったとする。もしも、「自国の領土」が健全である場合、そのような事が起こる事は無い。それこそどう不運だったとしても10回チャレンジすれば絶対に新大陸は発見できる。10回も必要としないだろう。では、そういう状態であるということは、一体どういうことなのか?それは、あなたの「自国の領土」が、本来の形であり、広さであれ、同胞達の数ではないからだ。まずは、船出をし、それで上手くいかないようであれば、自国の領土の回復に向け動き出しても良いだろうし、その両方を同時に進めても構わない。

 私自身、子ども達に指導していた時に、そして自分の指導方法を見なすために日々、していた事がある。それは何かというと、

  1. 分析
  2. 改善
  3. チャレンジ

 というこの3ステップだ。これをひたすら繰り返すことによって、当初見えなかった問題であったり、実際に実践してみて結果的に自分の予想通りにならなかった箇所を修正することができる。順番的にはチャレンジ→分析→改善と言っても良いかもしれない。とにかく、「はじめのいーーっぽ」を出してみない限り、生きた戦術など考えることも出来ないし、そもそも踏み出さずに正解を見つけ出す事など神さまでもないのに出来る訳がないし、もしかしたら神さまですらそんなこと出来ないかもしれない。全知全能ならばできるか。。。

 我々がそれこそ全知全能を目指すのであれば、それこそ莫大の量の領土を手に入れるためにひたすら"将軍"と"軍師"をフル稼働させて、同胞を増やして領土を強大にしていく必要がある。もちろん、「何もない」という真理によって、ひたすら自分の内側の世界にだけ潜り込む事も可能かもしれないが、自分の外側の世界が設計されている以上、この2つの世界を遊びつくした方がお得だと言える。ディズニーランドとディズニーシーを楽しめるチケットを持っているのに、どちらかしか楽しまずに帰るというのは、やっぱりちょっともったいないかなという気もするので。

 では、次の項では自国の領土を回復させ、航海にチャレンジして新大陸を発見したらどうやってその新大陸を自国の領土としていくかについて論述していく事にしよう。

7:「海賊王に俺はなる!」ではあなたは何になる?~実際に旗を揚げてみよう~

7:「海賊王に俺はなる!」ではあなたは何になる?~実際に旗を揚げてみよう~

 

 ここまでこの本を書いてきて、"自分"を最大限生かすための人生戦略についてのベクトルについてはもう議論の余地はほとんどない。もちろんその部分について反論しようが、反発しようがそれらについては、もちろん我々人間は選択の自由を与えられているが、星の軌道であったり回転する向きを変えることができないのと同じで、逆らったところでそれほど特段凄い事が出来る訳ではなので、やはり流れには逆らわずに乗った方がサーフィンと同じで楽しめると少なくとも私個人は考える。

 ではその新大航海時代に参加し、新大陸の発見など新時代の領土ゲームを制するためにはただ船に"将軍"と"軍師"を同乗させ、自分の夢であれ目的に同情させて手伝わせればそれで成功するのかと言えばそこまでレンジでチン的に簡単に出来上がったりはしない。だけど、それほど難しいものでもない。

 新大陸発見のための航海を成功させるために必要なものは、この他に何が必要なのか?それは「あなたの船に旗を揚げる事」だ。これは新大陸を発見し、その土地を自分の領土として統治する事においても非常に重要になってくる。それこそ、「ここは自分の家だ」「ここは自分の庭だ」と決まっているから、知らない奴が侵入して来れば不法侵入的な話になる訳で、やはり何もない土地に誰かが入ってきたとしてもそれこそその者は、その土地に対して自分のものだと権利を主張してくるかもしれない。

 その為、何事においても「旗を揚げる事」は必要であり、それこそ旗を揚げなければ過去同様の1つのパイを奪い合う血みどろのイス取りゲームに巻き込まれてしまう危険性も高いのだ。そしてもう1つ。旗を揚げない限り、航海においても領土ゲームにおいても成功しないような仕組みになっている。なのでもはやこの"旗"については、遠足のしおりの中に所持品として書かれていようが書かれていなかろうが、絶対に持っていかなければお話にならない代物なのだ。そして他人のつくった"旗"を代用品にしてもそこに関してだけは絶対に代用できない代物でもあのだ。

 「旗を揚げる?そんな簡単な事で人生の純度が上がるのであればとっくに上がってるよ。」とあなたは苦笑いを浮かべるかもしれないが、残念ながら多くの人間達は、旗を揚げる事を頭の中では簡単に思っていながら、実際には全くできていなければ、「旗を揚げる」という一線を越えることができない。それこそ、そんなに簡単ならば唐揚げやコロッケを揚げるかのように揚げてみれば良いのだ。だけど、口ではそれこそ勇ましいのだが、行動するという段階においてそれこそ多くの人間達はビクビクとおびえる小動物のように弱弱しくなってしまうのだ。「そんな事だったら世界はとっくに成功者だらけだ。」その通りで、そんな事が出来ない者だらけだから、こんな世の中になってしまっているのだ。「旗揚げなど簡単だ」と言っているものほど、旗揚げをしているのは自分の内側の世界で、ボソッとそれこそフォロワー0人の場において呟いた程度あり、少なくとも1億2千万人の前で、声高々に宣言して旗揚げをしたわけではないだろう。それこそ、あなたの「旗揚げ」について、誰が2ちゃんねるで取り上げてDisってくれたりいじってくれたりするというのか。「旗揚げ」というのはそういうことで、自分の心の中で呟いた程度では旗が立ったとは言えない。慣れてくればそれでも良いのかもしれないが、「当たり前」という毒牙にかかってしまった人間達が、「これで良い」と都合よく思えばそれこそ、そんな都合の良い人間が載っている船は、かちかち山でおなじみの泥船に決まっていて、しかもそこは大海などではなく底なしの泥沼でただひたすらズブズブと「自分の都合」という狭い世界へと沈んでいくだけだ。

 原始的に火を起こす時に煙を燻ぶらせるのと同じように、飛行機が離陸するときに一番エネルギーを要するのと同じように、その航海の道中に割くエネルギー以上に、何よりも濃いエネルギーを割くべきことは、この「旗を揚げる」ということなのだ。

 それでは、具体的にこの人生戦略というコンテクストにおける「旗を揚げる」というこれは一体何なのか?それは"コミットする"という事だ。そして、それを力いっぱい"宣言する"ということだ。もしかしたら"宣言する"必要はないのかもしれない。何故、私が"宣言する"ことを旗揚げの要素に入れているのかというと、それは人間が「都合の良い、過去の自分にしがみついてしまいがちの弱い生き物だから」という理由においてだ。それこそ、あなたは「〇〇をやる」と自分の心の中程度で宣言してそれらのすべてを達成したのだろうか。私は、それらのほとんどがいつの間にか「なきもの」にされていて、「あの時のあれはどうしちゃったの?」というような事になっている。むしろコミットし、宣言したとしても、ひと月もしない内になきものになることなど多々あるのに、宣言もせずに自分の都合でコミットしたつもりになっていた程度で、新大陸を発見するようなマッチョな航海であれ冒険をする事などできない。

 それこそ、過去の自分という鉄仮面をやはり「これが自分」だの「これが自分にマッチした人生」だのと言い訳をし始めて、船出する前の港に戻り、いつも通り皆と酒でも飲み交わして、それこそ冒険だの新大陸だのの話をなきものにしてしまうのがオチだ。だから世界はこの位しかバージョンアップしていかない。ほとんどの者が、新大陸発見の為の領土ゲームではなく、先輩たちが退場した後のイスを取り合う為の領土ゲームの為の人生戦略ばかり考えて、三十年に一回、五十年に一回だの的な某彗星がお目見えする機会同様のチャンスがやってくるその日だけをひたすら待ち続けているようなあまり面白みを感じないゲームに自分の生命のAllbetしてしまっているからだ。

 過去の大航海時代と今の新大航海時代の大きな違いは、「失敗したところで命までは奪われない」ということにある。言い方を変えれば「何回でもチャレンジできる」ということだ。過去の大航海時代はそれこそ本当の意味で命がけだった。それこそその航海において命を失った者も少なくない。だが、今の時代のこの新大航海時代では、いくら航海にチャレンジし、いくら失敗したとしても命を奪われる事は無い。だから、何度でも旗を揚げて、新大陸発見のためのチャレンジをひたすら行えばよいのだが、実際のところはどうなっているかというと、ほとんどの者達が、今既にある大陸の中で確実に存在する領土の奪い合いをする事を選択している。人は先駆者になる勇気、ファーストペンギンになる覚悟を持ち合わせていない。「誰かがやってくれたら自分もやる。」確実に二匹目のドジョウを手に入れる事には躍起になるが、一匹目になるリスクを負うことができない。それは、命を失わないようなこの状況においてもだ。もちろん「一番初めに毒見をする」というこの所業においては、実際物理的に心臓が止まる恐れがなくても、自分の脳内では「誰もやったことをやる→生命が非常に脅かされる」というインプットが完了されていて、まさにその部分においても我々人間はすでにパブロフの犬状態なのかもしれない。

 だけど、よく考えてみてもらいたい。「自分の内側の世界」の大航海において、人の心臓が止まることもなければ、生命を脅かされる危険もないのだ。それなのに、感覚的に「誰もやったことをない事をやる→生命が脅かされる」という自動コマンドがそれこそ、Windowsという皮を引っぺがしたその内部にあるDos側で入力されて実行されているとしたら、それはもはや「自分以外の"何もの"か」に自分の人生であれ、生命をコントロールされているのと同じではないか。この「自動ブレーキ機能」はちょっとどれもこれもにかかりすぎてしまい、自分の危機に対するブレーキだけではなく、自分の人生であり生命そのものに対して、ブレーキをかけ過ぎてしまっている。「アクセルとブレーキの同時踏み」などという事をどこかで述べたが、それこそ、自分の意思でブレーキを踏んでいなかったとしても「人間に備わった生命維持機能」という自動ブレーキ機能が効きすぎてしまっていて、いくらアクセルを踏んだとしても、勝手にブレーキが踏まれていて、多くの人間達は自分の未発見側の世界へと足も意思も向けることができず、それこそ牛の歩みのような鈍いスピードの人生を歩むというよりもほとんどその場にとどまるような状態なので、もはや人生を進むための足は機能と役割を失い、その足は壊死してしまうかもしれない。そうなる前に自分で自分の意識をコントロールするという「あと一押し」が必要になってくる。

 自分の人生のハンドルを自分で握るためには、誰か人任せにしているようでは、別に他人の誰かが足を引っ張る引っ張らないに関係なく、あなたの人生が何か発展的に進んでいく事は無いだろう。それは先ほど述べた貴方の中に搭載された「優秀な自動ブレーキ機能」がしっかりと効いてくれているからだ。セキュリティ機能が優秀であれば、それは外敵からは守ってくれるかもしれないが、セキュリティが効きすぎて自分が外出することもできなくなってしまえば、それはもはや誰のためのセキュリティであるのかも分からず、自分自身の殻という名の独房に閉じ込められ続けることになってしまう。

 ブレーキ不要とまでは言わないが、いつでもどこでも勝手にブレーキがかかってしまうような人生は、やはり臆病者としか表現のしようがない。もちろん他人があなたの人生を見て、「そこでは踏まないだろ」と思ったところでブレーキを踏んでしまったとしてもそれはそれで良いのだ。だけど、大事な事はここも同じで、「ブレーキは自分で踏みたい時に踏む」というここなのだ。これが「人が旗を揚げることができない原因」なのだ。だから自分の頭の中で「旗を揚げる?何をそんな事」と思っているのに旗を揚げられない原因だ。自分の意思とは違う「自動ブレーキ機能」が勝手に働いてしまうのだから。

 ということは、「旗を揚げる」為には何よりもこの「自動ブレーキ機能」をOffにする必要がある。その為にはどうしたら良いか?原始的な方法なのかもしれないが、それは自動ブレーキ機能をぶっ壊すしかない。いくらブレーキをかけてこようが、その自動ブレーキ機能が効かなくなるまでアクセルを踏み続けるしかない。これは自分の意思と、その自動ブレーキ機能の根競べそのものだ。自動ブレーキの奴が、もうこいつは無理だと音をあげるまでアクセルを踏み続ける。その為には、何かにコミットし、宣言し、自分の中にある「生存欲求」に対する自動ブレーキがバカになるまでひたすらチャレンジを繰り返す。ここはしつこく述べておくが、この新大航海時代における航海で、あなたは命を落とす事は無い。なので、それこそスーパーマリオを楽しむのと同じように何度でもチャレンジすれば良い。

 まずは、自分のこれまで住んでいた小さな島から旅立てるように、「自分の内側の世界」にある大きな壁を破壊しよう。それが出来れるまで、何度でも旗は揚げ続ける。もちろんここにおいても「10回チャレンジすれば絶対成功する」という私の個人的法則は適用されている。とにかく、旗を揚げて、船出をしてみよう。