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原澤出版の執筆用ブログ

8:最大のトラップ「階段の踊り場」の罠について

8:最大のトラップ「階段の踊り場」の罠について

 

 この世界は実際何もない。だけど何もないが広がっている。宇宙は膨張し続けていると言われているが、宇宙=何もない(無)だとするのであれば、そこはまたフラクタルっぽい一面を発見することが出来る。もしかしたらそれはフラクタル以上にまったく同じ形のような気もしないでもない。いつも通り、踏めるところで踏んでみると、もしかしたらこの「無」は「夢」なのかもしれない。もし、そうであるとすればこの世界は「夢」の広がっている世界とも言えなくはない。だけど、逆さから見れば、またその「夢」というのは「無」だということになる。

 これがベクトルであるかは定かではないが、この世の中の歴史において幾度となく"設計者"の意図を知ろうとしてみたり、"設計者"に近づこうと試みた人間達がいたことは確かで、彼らが辿り着いた境地であったり手法などは後世に語り継がれてもいるが、もはやよくある"伝言ゲーム"の中で起こっていく誤報の繰り返しにより、もはやそれは公正とは言えず、むしろ更正を要しているのだが、それこそあーせいこーせいと人々は自分なりの解釈やら思い込みやらで、むしろそれらをすべて手放したうえで更生するしかそれらについての活用法はもはや見つからない可能性がある。

 そういうことで、過去の言い伝えが今に至るまでそっくり正しく伝わる可能性などある訳がないので、(さまざまな要因で)ここで、自分なりの見解を示していきたい。もちろんそれらもひとつの仮説なので、最終的にはこの本を読んでいるあなたが、あなたなりの結論を導き出し、事あるごとにバージョンアップしてくれればそれで良い。あくまでも自分の手綱は自分で握って人生をゴールしてもらいたいと私は願う。もちろん本人が手綱を手放して手放しロデオを楽しみたいというのであればそれはそれで一興なのかもしれない。

 私自身においては、とりあえずこの人生の楽しみ方、遊びとしては"設計者"にどこまで近づくことが出来るか、願わくば、"設計者"本人を見つけ出して、人類の前に連れてくることができれば最高だ。もちろん、そんなことができるかどうか分からないけど、少なくとも"設計者"の意図であれ意志であれ意思にもっと近づく事は可能だと思っている。この世界自体に意味がなかったとしても「なぜ、このようなベクトルの世界になっているのか」については可能な限り近づくことは出来ると思っている。

 そして、その領域に突入する事で、まだ人間がたどり着けない領域であったり、人間に備わっているにも関わらず、活用できていない裏機能、裏ステージ、裏コマンドなどを知ることができるかもしれない。私の願望であり欲望はこの世界というスーパーマリオを誰よりも徹底的に遊びつくすことで、その為にはまだ誰も知らない気づかないそれらの世界を探し出して自分で遊ぶこと。ここにある。もちろん妥当性についてはまったく正当化するつもりはなく、私自身がこれが楽しいと思っているからやっているだけだ。

 しかし、もうひとつ理由はあって、その理由は何かというと、この社会をバージョンアップさせたいという目的だ。もはや今の時代に、過去から培われてきたこの社会システムというOSはそれほど合致していないように見える。本音を言えばもうズレズレだと思っている。そして、その社会OSを今もずっと人々に提供し、普及していく者(=教育者)においても、私は時代遅れだと考えている。これらのある種の負の遺産を払拭し、今の時代に相応しい社会OSを普及するためには、自らがその新しい社会OSを普及させていく教育者になる必要があり、その「新しい社会OSを普及する教育者たる者」という自分に課すべき、モーゼの十戒のようなものが私の中には存在する。その「新時代の社会OS教育者としての絶対ルール」としては、「"設計者"にいかに近づくかというチャレンジをし続ける者のみが、今の時代に合った社会OSを普及するにふさわしい教育者である。」という考えによって、私のこの世界における使命が具体的に何かということを自分なりに決めたのだ。もしも、そうではなく、これまでの社会OSを使い続けるのであれば、釈迦やキリストや孔子といった優秀な先輩たちの教えをそっくりそのまま、誤報にならないように伝言ゲームのように模倣して伝えていけば良いだけだ。私個人の考えとしては、それではつまらない。歴史上、誰一人として4割バッターになれないからと言って、過去の優秀な打者の猿真似をして好成績を挙げたところで、個人的には面白いとは思わない。もちろんそれを面白いと思う者は、それでも良いと思う。もしも「宇宙は進化というベクトルで進んでいる」というこの仮説が正しいのであれば、やはり前人未到の4割バッターを目指す気概で、この世界を私は遊びつくしてみたい。そして、その冒険の過程で見つけ出した新しい何かを私であれ、誰かが発見した時は素直にこの社会をバージョンアップさせて、新しい人間達のこの世界というスーパーマリオのバージョンアップを共有したいと私は考えている。

 そのためには、この本でこれまで述べてきたように、「自分の外側の世界」、「自分の内側の世界」に生じる言ってみれば「勘違いトラップ」という罠を回避したり、解除したりしつつ先のステージに進む必要がある。何かの幻術のような罠にひっかかってしまえば、それこそ狐につままれたかのようなある一定のステージからずっと抜け出せずに、先に進めなくなってしまうだろう。これまでも多くの人間達が、どこかのステージでそれぞれ個性的な幻術に嵌り、その場にとどまってしまったり、元の場所に引き返してしまったりして、なかなかお釈迦さま達が辿り着いたステージまでも辿り着かなければ、その先に進んだ者など皆無といって良いかもしれない。現代において知る人ぞ知る「マネーゲームからの脱出」的な話も、「マネーゲーム」という幻術トラップに多くの者が嵌り、"設計者"の意図に近づく冒険の事など忘れて、「マネーゲーム」という泥沼に足だけではなく、全身をズブズブ沈めていく者が後を絶たない。もちろん、本人たちにその泥沼はとても煌びやかな世界が広がっているようにみえるが、残念ながらそれは狐ちゃん達のテヘペロ的な子ども騙し的イタズラに過ぎなかったりする。もちろんこの「マネーゲーム」以外にも様々な幻術トラップは用意されていて、それこそ進化のらせん階段を頑張って登っても登っても、次から次へと手を変え品を変え、各階の階段の踊り場には甘美なご褒美がいつも、こちらに微笑みかけてくれる。

 もちろん、それらはご褒美そのものかもしれない。だからそこにどっぷり浸かっていても良いのかもしれない。しかし、もしもこの世界にある一定のベクトルがあり、そのベクトルが「進化」という方向を指し、進んでいるのであれば、やはり各階の階段の踊り場に備えられている甘美なご褒美たちは、やはり我々をその先には進ませることを思い留まらせるための、幻術トラップに過ぎない。そのため本来"教育者"としてこの世界を特に子ども達に伝えていく役割の者は、この「階段の踊り場の罠」にはどんなに甘美で魅力的だったとしても、目を背けて先に進むストイックさが要求されていると考えている。むしろ、そのストイックさがない限り、この進化という二重らせんの階段を登っていくことは不可能なのではなかろうかと、まわりの自称"教育者""指導者"を見ていても、歴史上のそういう役割の者達を見ていても両手にご褒美だらけの状態で、現時点での最上階に辿り着いた者の話などこれまで見たことも聞いたこともない。辿り着いてもいないのに巨万の富を得て、その気になっている人物についてはそれこそ枚挙に暇がないのかもしれないが。

 次の項では、「どれだけ人間が自分に都合の良い世界を作り上げがちな生き物であるか」ということについて考察するが、人間そのものにその気がある以上、「あっちもこっちも」というような考えに辿り着きがちな為、「誰もが羨むご褒美を手にした者=悟った者」という世界観を今の時代であれば、なおさら提示しがちであるし、もはやそれが当たり前のような世界になってしまっている感もあるが、そこについてはお釈迦さまの掌で転がしやすいように調理・味付けされているというか、某MATRIXカプセルの中でバーチャル世界を見させられているというか、お釈迦さまではなくタモリ様に言わせれば、「んなこたぁない」という有難いお言葉を頂戴する機会に巡り合える事は間違いないだろう。

 もしも、あなたが誰かを教育する立場にあるのであれば、今自分がどこかの階段の踊り場で、何かのご褒美に埋もれて、歩みを止めるウサギちゃんになっていないかを常に問い続ける必要がある。歩みがのろくても進み続けるカメであれば、きっとこの人生の中でお釈迦さまの辿り着いた階にもたどり着けるし、その先の階へと歩みを進めることが出来るはずだと信じたい。もちろん、そこまで行ってみない限り、その先があるかどうかは誰にも分からない話なので、少なくとも私は、出来るところまで歩みを進める事にする。今回の人生においては、そういうゲームを楽しんでいる。