harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

10:日本と『西洋』の違いについて今思うことについての考察

10:日本と『西洋』の違いについて今思うことについての考察

 

 それでは、この章の最後にこれまで考察しなかった部分の中で、『西洋』と日本ってこのあたりに大きな違いがあるんじゃないだろうかという部分について考えてみたり論じてみたい。

 まずは、私自身が気になるのは「なぜ、日本人はあんなに謝るのか?」という部分についてだ、逆から言えば「なぜ、西洋人はあんなに謝らないのか?」とも言える訳だが、我々日本人は、少なくとも今の時代の日本人達は、いきなり「すみません」から始まり、終始謝り続ける。海外に行ってそんなに「すみません」「すみません」言っていると普通に「なんなんだこの頭のおかしい連中は。」と思われる事だろうし、「すみませんって謝ってりゃなんでもやってくれると思ってるんじゃねーぞ、この野郎。」ぐらいに思われている事だろう。そして、反対に西洋人たちが日本にやって来ればその腰の低い態度であれ対応に、いろいろな意味で驚く事だろう。それこそ、「嗚呼、負け犬たちよ、70年経った今もよく躾が行き届いているな。せいぜい励めよ犬どもめ。」ぐらいに口では言わなくても、心の中では思っている人間達もいるかもしれない。やり過ぎたサービスをしてしまえば、こちらがその気ではなくても、相手にはそう受け取られる危険が大いにあるという事だ。

 まず、この日本人の「謝罪文化」がいつからはじまったのかを考えてみたい。そもそも戦争に負ける前、しかも日露戦争に勝利してイケイケだった当時の日本人達も今の時代の日本人のように「すみません」「すみません」を連呼していたのだろうか。そして、お侍さん達も「すみません」「すみません」と連呼していたのだろうか。そんなにこの「謝罪文化」のようなものは、日本のお家芸というか伝統的な文化ではないような気がする。かといって、昔の日本人達が西洋人たちのように何があっても謝らないような態度で生きているようにも思えない。

 これはあくまでも仮説だが、日本の歴史の中で日本語を使わない他言語を使う者たちとの関わりがなかったため、日本語を使う者たち同士の中ではそれら日本語的なやり取りが別に謝罪だとか謝罪じゃないとかそういう関係になかったのだが、日本の外側の文化の人間達とやり取りをすると、どうしても日本人というか日本語使いの者たちは、「すみません」「すみません」というような感じになってしまって、逆に西洋人達は謝らない訳だから、常に謝っているのは日本人みたいになってしまったのではないだろうか。そもそも「謝罪文化」が日本の伝統として蔓延っているのであれば、それこそ日本は敗戦国になる事は無いというか、戦う前から「すみません」で済んだような気がするので、少なくとも大勢の人達は死ぬことはなかったはずなのではないだろうか。これは殺した側にしても殺された側にしても同じ事が言える。何人殺したかは分からないけど、日本も自分の領土の外側に出て人を殺し、戦争に勝ってきた事実があるのだから、どうしても「元から日本人は謝るのがお好き」のようには思えないのだ。早まるのはお好きなような気もしないでもないが。

 やはり、そういう事実から考えても、戦争に負けて日本が焼け野原になってそこから復興していく何かの戦略的な要素というか立場的な部分が大きく加味して、日本人の「謝罪文化」が生み出されたような気がする。それこそ、あの戦争に負けて書いたであろう謝罪文から「謝罪文化」は生み出されたと言っても過言ではないだろう。

 たしかに、日本は歴史上、1945年あたりに戦争に負けて、敗戦国として生きてきた。だけど、我々今の時代の日本人は別に敗戦国で生まれた負け犬たちではない。たとえばじゃんけんで1回負けた位で、そこから死ぬまで「負け犬」というレッテルを貼られて生き続けているのと同じで、もっと言えば自分の祖父さんがじゃんけんで負けたという事実で、孫達が「負け犬」というレッテルを貼られて、その役を演じ続けているというような滑稽な文化を継承してしまっているということなのだ。祖父さん達は当事者だからしょうがないとしても、孫やひ孫である我々が、何故そんなレッテル貼られ続けて生きなければいけないのかが分からない。戦争をすることはよろしくない。だけど、戦争で負けた時のルールを70年経った今も引きずりつづけなければいけないというのも、おかしい話だ。戦争するかしないかの話に持っていかれそうなので嫌なのだが、「もうお前ら「今の時代の日本人」として自由に決めてくれ」と何故そうしないのかが分からない。もちろんそれをすれば損する国が出るからだ。「そんな事をすれば危険だろ。」みたいな事をそれこそでっちあげている連中がいるのだろうけど、それはこそがでっちあげなのであり、日本人がそんな世界征服的な事を考える訳がない。しかも、普通に今の日本は物質的にも裕福で、徴兵制度など望む人間も、一部の過激な連中だけで基本的には平和を誰よりも好む生き物であることは、震災時の日本人達の態度を見れば分かるはずだ。「調和の精神」を持っている民族が日本人であり、それを西洋と比較したり、戦争というハプニングによってその「調和の精神」が「謝罪文化」へと歪んでしまっただけなのだ。それこそ、日本人に自由に決めさせて、おかしなことをしたらそれこそ、一発で叩き潰してもはや、我々日本人から日本語を奪えば、もうこの島国に住んでいる西洋的なアジア人としか生きられないだろうから、そうすればよいだろう。しかし、何度も言うが、日本人はそんなに戦闘を望むような民族ではない。日本という生命体そのものが望んでいないのだから。そもそも、日本人の中でそういった物質的な領土を奪い合いたい人間がいるのであれば、今の時代は戦闘を好む国にでも移住して、国籍を変えて生きれば良いのだ。歴史の一部分を切り取れば、日本人は残酷に見えるだろう。だけど、それはどの国の歴史でももっと残酷な歴史などいくらでも存在している。日本人は、基本的には「優しい民族」なのだ。それによく分からない火を焚きつけたのは誰なのだろうか。それこそ北斗の拳の世界で言えばシンがまさしく「日本」であり、それに何かを焚きつけて豹変させるようなちょっかいをだしたジャギのような存在が『西洋』なのではないだろうか。その部分について、我々日本人は、もう一度「本来の「日本性」」というものを考える必要がある。その上では、やはり「謝罪文化」というこれについては、孫の代ひ孫の代まで続けてる必要はないし、それこそ「謝罪文化」という鉄仮面が我々日本人にもはや皮膚化しつつある。この鉄仮面をなんとかひっぺがすには、早いうちにひっぺがしておかないと、「謝罪文化」自体が日本の伝統になってしまう。もう「すみません」「すみません」言いながらペコペコやる必要もないし、西洋人たちのように一切謝らず、正面でぶつかり合うスタイルをとる必要もない。やはり日本人は合気道的な、和合的な精神が日本人らしい気がしてならない。敵と友達になってしまうスタイルが「大和魂」のスタイルなのではないだろうか。日本の伝統を辿る限り、私にはそう見えてしょうがない。

 この「和合的なスタイル」をとれるのが日本人であり、西洋人達はそれを苦手とする、もしくは出来ないのである要因を考えてみると、「足し算スタイル」「引き算スタイル」というものが考えられる。アメリカ人の作るそれらはとくに食べ物で考えれば分かりやすいが、「でかけりゃいい」みたいな考え方がある。日本人にはあまりそういう発想は本来なかったはずだ。いつのまにかそれは『西洋』にかぶれてしまった結果であって、「大和魂」の発動という意味合いにおいては、「大和魂」を錆びつかせてしまう発想と言えるだろう。日本的な発想とはやはり「和合的なスタイル」であるといって良いし、日本っぽいそれこそ海外の者達にファンタスティック、ワンダフルと驚かせるようなものは「デカけりゃそれでいい」の世界観ではなく、「和合的なスタイル」なのだと私は考える。

 ある意味、今の時代においても、それが西洋のものであったとしても、日本人らしいスタイルで臨む事が日本人として一番輝けるやり方なのではないだろうか。それはどんなものであっても、日本人の「和合スタイル」で臨む職人気質のようなそれらで、和合していく事で、「あの日本人イカしてる。」と西洋人たちが驚くようなモノづくりであれ、パフォーマンスであれを見せる事が出来るのではないだろうか。そして我々日本人には、和合できる職人気質が、日本人のDNAとして皆に刻み込まれているのは間違いない事実なのだから、邪魔なのは途中で入り込んできた「謝罪文化」という異物であって、この今の時代においては無用なかさぶたを1枚ひっぺがしちまえば、『西洋』を驚かすことが出来るだけの「日本」という独自の「和合スタイル」を生かした世界造りは、我々日本人であればだれでも出来るという事だ。「大和魂の復活」を私が提唱する理由は、まさにここにある。

 もう、世界からどんな催眠術をかけられようが、戦争をしていた何千年前からの日本をもう一度学びなおし、古きを温めて、新しきを知る事に冷静に立ち向かうことが必要だ。政治やニュースを見ていても、どうも今の日本は、敗戦当時の傷を気にして舐めてばかりいるように見える。それこそ、国際的な戦略上、「おーい、Japan。もう自由に自分たちで決めて自由にやっちゃっていいよー。」なんて言ってくる訳がないのだから、もうそういうのは適当にあしらって、自国の中においては「日本らしい日本」という国づくりをみんなでしていけばよいだけなのではないだろうか。それこそ、アメリカをはじめとする「日本の外側の連中」が言っているような日本を我々は全員で演じすぎている感がある。それこそ、我々日本人に「日本人の本来性」について考える隙を与えようとしないのかもしれないが、敗戦という特殊な一部分ではなく、日本の歴史であり、伝統の全体像を鑑みる必要がある。そこに「大和魂」が滲み出ているのであって、「日本=戦争好き」みたいな「お前は汚れ芸人だ。」的催眠術プロデュースからは、そろそろ卒業して本当の素の自分を出して、日本という国は生きていくべきなのではないだろうか。という「このまま汚れ芸人やって生きるか」「それとも本来の姿に戻って生きるか」という分岐点に、今の時代の日本であれ、日本人は立たされているように見える。もちろん私個人としては、残りの日本人が汚れ芸人の方を選択したとしても、その汚れ芸人に付着した汚れを洗濯して、キレイなころの日本としてこれからは歩みを進めていきたい。もうくだらない過去に、いちいち囚われたり、他国の催眠術に付き合う必要などどこにもないのだから。

9:お侍の精神・武士道について考えてみる

9:お侍の精神・武士道について考えてみる

 

 よく、「大和魂」的な言葉を使えば、「はいはい、それは帝国主義か何かですか?」と安っぽい議論に引っ張られそうになりがちなのだが、少なくとも私はそういう議論がしたくて「大和魂の研究」をしている訳ではない。日本というこの島国の伝統から滲み出る「日本人性」の部分を研究したいのであり、そこにしか「大和魂」は存在しないと考えているし、その「帝国主義」的な日本などというものは、それこそ乱暴に切り捨ててしまえば『西洋』という欲に駆り立てられて、『西洋』ごっこに陶酔している日本らしくない日本だとしか思えない。それこそそこに武士道であり、お侍の精神が本当にあったのかどうかは疑わしい。都合の良いところにのみ「日本の武士道がどうのこうの」みたいな事を押し付け、「お国の為」的な事を言って焚きつけたのだろうが、そもそもその「お国」自体が戦争を望んでいないのに、何故「お国の為」になるのかも分からない。戦争を望んでいたのは決して「お国」というこの日本という生命体ではない。望んでいたのは『西洋』にかぶれ、物質的に「もっともっと」とそれこそ危ない薬物に中毒症状を起こしている人達と変わらず、欲にやられた「日本人らしくない者達」が、それこそ物が増えたスピード同様に異常増殖しただけに過ぎない。

 これまでこの本では、「日本らしさとは何なのか」について、いくつかのコンテクストに載せて考えてみた。実際、もう少し「日本らしさ」であり、「日本的誇り」みたいなものは、やられたらやり返す的何かがあるのかと思っていたが、そもそも「日本的」というものは、じっくりとみんなお友達、目に見えるものも見えないものも。過程を楽しむ民族だという平和的な姿が窺えたのだ。実際、日本的な民族はそれこそ戦闘して勝っただの負けただのをする事が得意ではない根っこを持っている気がしてならない。素朴な民族なのだ。そんな事を言えば「お前たちは戦争の時に」だの「悪魔の子孫がどうのこうの」と言われてしまうだろうが、それこそ日本国民の多くが何か「物質主義」的な催眠術を誰かにかけられていたような気がしてならない。見当違いかもしれないが、やはり日本人というものは、基本的には素朴を愛する生き方をする民族なのだと考える。そうでなければ、世界から見たら特異な「日本的な文化」というものは生まれていない気がするからだ。

 とは言え、日本には「お侍文化」があったことも事実で、歴史もあった。それが日本全体の歴史の中のどのくらいにあたるかは長いと見る人もいれば、それこそ一部のブーム的なものと見る人もいるだろう。実際のところはお侍さん達に直接聞いてみなければ分からないし、お侍さん全員が同じ考えではなかっただろうけど、「侍」「武士」という一本筋の通った何かは皆が共通して持っているものだろうからそれを考えてみたいのだが、個人的な予想としては「自分の内側の世界」を鍛えるのが、侍の精神であり、武士道なのではないだろうか。

 「自分の内側の世界」を鍛えることが、「自分の外側の世界」においても強き者となる。というこの発想が基本的には武士道のような気がしてならない。だけど、その発想は映画ラストサムライで描写されたような感じで、「自分の内側の世界」で強くなったとしても、「自分の外側の世界」では機関銃の弾一発であなたたち何て死んでしまうのですよ、ねぇ?ザーボンさんドドリアさん。とばかりに、無情にも打ち砕かれるようにも見えるのだが、ここに『西洋』のどこを受け入れるけど、「日本」の何を大切にしなければいけないのか。その問いとその問いに対する答えをあの映画ラストサムライは描写していたのだろう。科学が発達すれば、この世界のパラダイムは変わる。そこを受け入れなければ時代錯誤の頑固者になってしまうことは事実なのだが、かと言って、「自分の内側の世界」を鍛えずに、「自分の外側の世界」でどれだけ武装できるかなどという発想で生きれば、それこそ人は武装したまま風呂に入る訳でもなければ、寝る訳でもないので、無防備なところで襲われてしまえばどんなに凄い武器を持っていたとしても一発でやられてしまうというこれもまた事実なのだ。そして、いくら強靭な「自分の内側の世界」を持っていたとしても、鉄砲弾一発で死んでしまうというのも事実。ではどうする?という問題に直面しているのが我々の生きている時代なのだろう。

 その両者の世界で強き者となる事が今の時代における「文武両道」の世界なのかもしれない。武器に長けるだけの頭と、何事にも恐れず立ち向かえるだけの心の強さこの両者をもってして今の時代における強き者と言えるのかもしれない。そう考えると、『西洋』のそれらにしても、「日本」のソレにしてもどちらかだけでは片手落ちなのだろう。だからこそ、我々は「日本」であり、「侍の精神」のようなものを簡単に手放してはいけないのだと考える。科学的というか近代的な武器をいくら扱ったところで、効率的に結果を出すことが出来たとしても、「自分の内側の世界」を鍛えることは難しいだろう。その反対に、今の時代で弓矢などでいくら達人になったとしても、弓の届かない距離からライフルで狙撃でもされてしまえば弓の達人はそれこそ無防備で、弓の技術など何の役にも立たないかもしれない。だけど、弓を射るその精神の高め方などは、物理的な命の取り合いではない状況においては、非常に強さを発揮する事だろう。今の時代における日本的な武道とはある種の「精神鍛錬」において効果を発揮するのだ。それで良いのだと私は考える。

 ある意味『西洋』と「日本」の二刀流で良いのだ。だけど、メインの刀は「日本」であるべきなんじゃないのかなとも思ってしまう。もちろんその理由は、我々が日本人として生まれて生きているからだ。そして、今の時代世界で活躍している日本人達は少なからずともこの「日本」という刀をしっかりどちらかの手に握りしめているように見える。その反対に100%『西洋』にかぶれようとしている日本人達は、それこそ魂の色がくすんでいるというか、結果的にも洋の東西に関係なくあまり相手にされているように見えない。そして、世界から見れば時代錯誤に見えても「日本」の一刀流に関しては彼ら彼女らから見れば、とても不思議な世界に見えるのだろうから、それはそれでアリと言えるのかもしれない。一番やってはいけないのは、我々日本人が、ただ単に『西洋』にかぶれる事だ。そんな付け焼刃の一刀流に、誰も見向きをすることはないだろう。

 日本の中には武道以外にも、茶道や華道もそうだし、その他の伝統芸能などでも、精神を鍛錬することが出来るだろうし、「日本的な」それこそ「大和魂」的なる何かを揺さぶりながら身も心も鍛錬する事が出来る。それらを活用しない手はない。そして、その中で鍛錬された強靭な心身によって、今の時代に求められているものと関わる。それが『西洋」と「日本」的なるものの弁証法的進化を作り出すとも言えるし、この時代を止揚してその先に進むひとつのやり方であり、それが日本人としての独特なこの世界の進化のさせ方なのではないだろうか。

 そういう見方でこの世界を見た時、形は変えたとはいえある種の「戦場」は今の時代にも広がっている。そこに挑み、必死に突き進むとすれば、我々は日本の先人の教えを頂くとともに、「大和魂」という土台の上で、『西洋』を吸収して新しい「新時代」というパラダイムをいかに創り上げていくかという事が課題であって、『西洋』ごっこというものまねトーナメントで優勝を目指すような事をしていては、それこそフッチボーラージャポネーズ的な世界の笑い者にされて、ものまね大会という牢獄に閉じ込められてしまうだけになってしまう。乗り越えてさらに先に進むか、媚びてそこに留まってペコペコし続けるかに関しては、誰が決める事でもなく、自分自身で決めるしかない。

 侍の精神、武士道を大事にするというのであれば、それこそ日本という生命体という意味合いにおいての「お国の為」を考えるのであれば、この日本という生命体が長年培ってきてくれた精神力を備えて、世界を築いていく事が今の時代の日本人としての本懐なのではないだろうか。それこそ、『西洋』に必要以上に尻尾を振ってかぶれようとしてしまったあの時代に戻って、もう一度本来の日本人性を大事にした生き方とは何なのかを各自で対話して、新時代の日本らしい日本とはどういう国なのか?新時代の日本人らしい日本人とはどういう国民であるのかを、日々バージョンアップさせていく必要がある。そして、しっかりと進んでいくためには、無思考で「当たり前」と受け入れずに、それらの1つ1つを疑って、自分なりに考え、真実が何なのかを見ていく必要がある。

8:日本には神さまがたくさんいることについて考えてみる

8:日本には神さまがたくさんいることについて考えてみる

 

 「魂」というぐらいなのだから、目に見えないものである代表である「神さま」についての価値観であり、世界観にも大きなヒントは隠されている事だろう。基本的に宗教は「一神教」か「多神教」かという分類をされているが、『西洋』の宗教は、「一神教」であり、日本の宗教は「多神教」だ。今の時代の科学的な発展は一神教的な宗教観の者たちが発展させたような気がする。日本の多神教的な宗教観が、このような「自分の外側の世界」へと発展させたとしたら、とんでもなく違和感というか矛盾を生じる気がしてならない。それこそ、日本的な宗教観で時代が進んでいたとしたら、もっと自然と調和したような世界になっていると予想できる。もしも、今の時代の近代的なものたちが『西洋』的であるとするのであれば、本人が『西洋』の宗教の信者ではなかったとしても、もはやそれは一神教の信徒であることとそれほど変わらないのかもしれない。

 その部分に関しては、この章で伊藤博文であれ、その当時『西洋』に憧れ、陶酔しきってしまった者達は、すでに建物であれ国のルールを改修しただけでなく、『西洋』を培ったその一神教に改宗してしまったかのようにも見える。それこそ、日本が『西洋』に買収されてしまったようにも見える。「大和魂」の復活を望む者にとって、そこに漂うのは哀愁しかないだろうし、それこそよろしくなどとは思わないだろう。そこに対して決して「Here we Go!」などとテンション高めに掛け声をかけたり、スーツの両脇を掴んで、ヒラッヒラさせてみたり、自分自身をクルックル回転させることも出来ない。だけど、その当時の大衆達は、毎週のように当時日本が『西洋』化して、それこそエキゾチックな「Japan」へと進化していくことを大歓迎したのだろうけど、それが本当に正解だったのかどうかは、分からない。ただし、歴史的に言えば『西洋』化した数年後には、もっととんでもない強制的な『西洋』化を受け入れざるを得ない状態になったので、もうその明治時代の『西洋』化についてどうこう考察してみたり、論じてみる必要すらなくなっているのかもしれない。

 乱暴な主張であることは承知の上、ブッ込み気味に持っていってしまうと『西洋』という一神教は「科学崇拝主義」のようなものだ。人間は神(創造主、私の言うところの『設計者』)と似せて作られた存在と定義し、神が我々の前に姿を現さないのだから、我々人間が、神に代わってこの世界を統治して良い。というようなまあ人間にとってとんでもなく都合の良い世界観であれ、宗教観を創り上げたのが、『西洋』という名の一神教なのだと私は考える。そして、明治時代の日本人達も、子どもたちが新しいおもちゃを持っている友達のソレを羨ましがるのとまったく同じ関係で、「いいなー」とばかりに『西洋』君が、たくさん持ってる『新しいおもちゃ』たちを自分たちも欲しいとばかりに、「日本」という古臭いおもちゃを捨てて、その『西洋』という『新しいおもちゃ」欲しさに、いろいろな大事なものを捨ててしまったのだろうと推測する。

 もちろん、とんでもない破壊力を持つ大砲だったり、戦艦だったり、それこそ空を飛ぶ乗り物なんて持ち出されたら、そりゃあ身も心も魂も奪われてしまう同胞たちの気持ちも理解できる。しかし、当時伊藤博文が発言したような「東洋の宗教であり学問は虚学に過ぎない。」というような発言はやりすぎであり、ベルツがそれこそDisったように、「そんなにお前ら、簡単に魂まで売ってるんじゃねーYo」という意見と私は同意見だ。それら『西洋』の『新しいおもちゃ』を羨ましがったり、手に入れたがるのは構わない。だけど、それらを手に入れるために「大和魂」まで売っちまっては元も子もない。それこそ、豊臣や徳川が頑張ってキリスト教を排除した理由はなんだったの・・・というお話になってしまう。それこそ、石崎君や浦部以上に豊臣秀吉徳川家康伊藤博文に対して「それにつけても俺たちゃなんなのー」と歌わずにはいられない状況なっているように見える。やはり「魂まで売っちゃいけないんじゃないの?」って疑わずに、『西洋』にブッ込み過ぎたことに関しては、明治時代のお偉いさんやっぱアンタ達ちょっとヨダレ垂らしすぎちゃったんじゃないの?と言わずにはいられない。

 これは東京でもなく、娘でもないけど、タラレバ話に過ぎないが、もう少し明治時代が、「日本を大事にしつつ、『西洋』と迎合する」という石橋の上を叩いて歩くスタイルで、『西洋』をゆっくりそれこそ低周波的に噛みしめながら日本の改革を進めていったのであれば、その後起こったあの戦争も起こらなかった可能性もあるし、そもそも領土を日本が広げていこうという『西洋』的発想を持たなかったのではないだろうか。とまで思ってしまう。日本という島国が本当に1つの生命体であるとしたら、日本という生命体自身は決してそんな『新しいおもちゃ』を欲しがっているようには思えない。

 もちろん、『西洋』というその一神教は、私の言うところの『設計者』がこの世界を設計したタネと仕掛けのいくつかに関しては、解明したからこそその魅力的な『新しいおもちゃ』を作り出すことに成功したのだから、それはそれでこの世界というスーパーマリオの裏ステージ、隠しアイテムを発見したので、とんでもないお手柄であることは間違いないだろう。だけど、その『西洋』という発想で発見できる裏ステージや隠しアイテムもあるけど、反対に「日本」という発想ではないと見つけられない裏ステージや隠しアイテムだってあるのだということを何故、明治時代の日本人達は疑わなかったのだろうか。そんなに「大和魂」的なものが時代錯誤の恥ずかしい代物のように見えてしまったのだろうか。事実からしてそういう事になるが、この催眠術的なインパクトが、日本を世界を物質主義、拝金主義的な世の中へ加速させていったように見えるのだ。

 もはや今の時代において、それらが「当たり前」となってしまっているので、もはや日本的な多神教的考えであったり、「神と共に生きる」的な発想こそが人間レベルにおいても知的レベルにおいても幼稚だの未熟だのと言われてしまうが、果たしてそうなのだろうか。その発想は、学力のみにおいて人間の優秀さを決めるようなやり方と同じで、ある一方向からしか評価基準を固めて、世界であれ、人であれを一方的に評価するやり方に過ぎない。まさに、まわりくどいのがお好きではない『西洋』的なやり方だということだ。その結果どうなったのか。今の時代にその一方的な人間評価システムが正解だったのか不正解だったのか。その評価システムが大人的で、成熟したものだったのかの確認ができる。結局、それらによって人間的に育っていないな大人とも言いづらい未熟で幼稚な大人たちが、今の社会に蔓延り蔓延している事実からすれば、『西洋』が大人で、以前の「日本」が未熟で幼稚だという発想自体が、何かのコンテクストに欠ける浅はかな見解だったのだと私は主張する。

 『西洋』で言うところの「神」と「日本」で言うところの「神」は違う。『西洋』の「神は人間を自分(神)と似せて創った」という仮説からそれらの世界観が創られているのだろうが、それこそ「日本」の多神教の世界観以上に、この世界を人間が都合よく解釈してつくられた「中二病」的世界観でしかない。まず、神はそんな事を我々人間に言っていない。

 それに対して、少なくとも「日本」的多神教の発想というものは、『西洋』で言うところの神、この世界の創造者が、人間も、星も、太陽も、火や水や土も創った。それは創造者が創ったものなので、そこに「神」が宿っている。もちろん人も創造者が創ったものなので「神」が宿っている。だから我々もそういう意味合いにおいてはそれらと兄弟であり、仲間であるのだから共に仲良く生きよう的な発想で創られている世界観なのだ。それこそ創造者ご本人が登場して、「そうだよ、お前たち人間は私に似せて創ったのだよ。」とでも言ったのであれば話は別だが、それこそここに論理的なものを感じることが出来ず、「日本」的な発想の方がよっぽど論理的だと考える。「日本」的な発想の方が、実際は事実に基づいてそう言えるのは間違いないだろうし、『西洋』のそれは、ヒトラーが掲げていた発想とただ、危険の度合いが違うだけで根本的にはそれほど変わりがない。もしも、「日本」の中にも「私が神だ」だの「私が神の使いだの」と言って何かをしでかそうとした者がいるのであれば、それは残念ながら『西洋』にかぶれてしまっただけなのだ。「日本」的に考えれば、「我々は日本という生命体を皆で創っている。それ以上もそれ以下もない。」という発想において、この日本をどう進めていくかを決めるはずだからだ。「日本」という伝統を土台として考えれば、そうなるはずで、少なくとも、明治維新前後からの日本は、『西洋』に憧れを持ちすぎて自分を見失っている感じがする。戦争に負けたのも日本が未熟、幼稚だったからではなく、「らしくなかった」からであり、それは戦争に勝つ負けるではなく、『西洋』ごっこ的な事に参加して「らしくない」ことをしたから大目玉を食らったというただそれだけの事だと私はこれまでの日本という特徴を見て考えて導き出した見解だ。

 それこそ、オカルト的な話だが、日本は歴史上、戦争に負けるまでは他所の国によって一度も統治されてない。それは日本という生命体が、我々日本人を愛しているからであり、外の民族の支配を受け入れない免疫の強さを持っているからだという事も言えるし、反対に領土を広げようとしても、日本という生命体はそれを受け入れず、やはり「日本は日本」という何か強烈な意識を持っている気がしてならない。もちろん彼は仮説にすぎないが、そうでなければもうとっくに日本は中国大陸であれ『西洋』に1度や2度侵略され、何度か支配された中での、ミックスジュース的な国になっていてもおかしくないのに、ずっと「純日本」を貫き通してきた。ここに意味がない訳がない。世界のほとんどの国が、なんらかのミックスがされているのに、日本だけがそのミックスをことごとく拒み続け、「純日本」を貫き通してきた。そこに「大和魂」が強烈なポテンシャルを秘めている秘密があるのではないかと推測する。そして、「日本」の考える神さまのように、土地は何か神さま的な力を持っている可能性がある。それを純粋に感じることができるのは、「日本」的なOSの持ち主達であって、『西洋』のOSではそういった多神教的な意味合いにおける「神の声」を聴くことも出来ない。聴くことが出来なければもちろん話すことも出来ない。そして、仲良くなることも出来ない。

 『西洋』はそれらの「日本」的な多神教世界観の中で定義する神々たちに首輪をつけ、それこそ彼ら彼女らを奴隷のように扱っている。それら多神教的発想の神々と西洋人は従属関係を築き『西洋』は発展してきた。しかし、『西洋』が発展させてきたのは「自分の外側の世界」であり、「自分の内側の世界」を発展させたとは言いづらく、「自分の外側の世界」に者や金が溢れた結果、「自分の内側の世界」では何が溢れたのかと言えばただ、さまざまな『欲』が溢れ出ただけなのではないだろうか。それは「日本」的発想で考えれば、決して幸せになったわけではなく、ただただ人が自分を創造主だと勝手に思い込んで、この世界をひたすら汚し続けただけに過ぎず、「自分の外側の世界」に一見魅力的なもの達、つまり「光」を増やしているように見えるが、それは同時に病みという「闇」も同じだけ生み出しているに過ぎず、それらは「自分の内側の世界」の中ではどういう事になったのかと言えばそれは「落書きだらけの世界」「ゴミをやたら排出する世界」を作り出しただけに過ぎない。お祭りは楽しいけど、お祭りをした後ってなんだかゴミだらけで街が臭い。まさにあんな感じだ。

 『西洋』的発想は「自分の外側の世界」に現れる現象を「結果」とし、その「結果」にコミットしてつくられた世界観であり、文明なのだ。それによって、我々人間達の「自分の内側の世界」はどうなってしまったのかを考えれば、今の時代だからこそ「大和魂」を発現、発動させた生き方というものが、外の人間達にとっての何かの提言であり、提案であり、新しい時代の生き方への手本となる可能性が高いのだ。それは決して『西洋』を全否定する事ではない。だけど、『西洋』のそれまでの全行程を全肯定する訳でもない。それらを「日本的」に考えれば、従属ではなく、同属として考えるだけ。天は人の上にも下にも人をつくらないだろう。それは神という部分においても同じで、神の上にも下にも神は作っていない。言葉が喋れるから、ものが作れるからと言って思い上がってはいけない。それこそ、ホントに我々人間が創造主に似せられてつくられていたとしても、別にこの世界のリーダーであるなどというのはただの思い上がりに過ぎないし、仮にリーダーだったとしても他の神々に首輪をつけて散歩するような世界を創り上げているようでは、それこそ他の星に宇宙人がいた時に、「ナンナンダ、アノ未熟ナ地球トイウ星ノ生物ハ。」と笑い者にされる事だろう。

 もしも地球という星が、1つ上の生命体レベルに上がる為には、人間達が「自分の内側の世界」と「自分の外側の世界」についての理解を、もっとじっくり観察して、この世界がどうなっているかを考えるべきだろう。もはや、ここまで物質主義的な方向に偏ってしまえば、それこそこれ以上物を増やすことは無意味でしかない。そこに偏りすぎてしまった約50年100年の間に、反対におろそかにしすぎてしまった「何か」があるはずだ。世界が今後も物質主義に偏り続けていたとしても、少なくとも「日本」だけはその「何か」について考え、そこと向き合う姿勢と行動をとっていくべきだと私は考える。

7:日本人は普通に精霊使い・こびと使いであるというお話

7:日本人は普通に精霊使い・こびと使いであるというお話

 

 前項では「日本人的なる食事」について考えてみたが、時代の流れに逆らうことまでして、無理やり日本人的な食事を追いかけることは幾ばくかのズレを感じてしまうので、それ以上の考察をすることはそれほど意味がないと考えたのだが、この項では日本人は普通に精霊使い・こびと使いであるというお話といういかにも妄想スピリチュアリスト達が好みそうなタイトルで、日本の独自性について考えてみたい。

 ここまでの項の内容の中で、日本人は「目に見えない過程のようなもの」を大事にする生き方をしている民族ではないかという予想に辿り着いたわけだが、「目に見えないファンタジーの世界の生き物」というのは日本にでも西洋にでも形を変えて描かれている訳だが、日本人は実際にファンタジーという「自分の内側の世界」にだけ存在する概念的な精霊でありこびとを使うという空想大好き人間ではなく、実際にこの「自分の外側の世界」の中で、物質的にある種の精霊であり、こびとを使ってものをつくる技術を持っているのだ。もちろんそれらを精霊と呼ぶかこびとを呼ぶかは別の問題ではあるが。

 実際にそれらの文化は西洋でも見ることは出来るが、おそらく同じような事をしていても「結果」にコミットする西洋人はそれらの事を精霊とも思わなければ、こびとだとも思わない事だろう。ただそれがそうなったという結果であり、ある種の化学反応的な形でしか認識できないのではないだろうか。

 しかし、「過程」の中にエネルギーを込めることができる日本人は、それらを「結果」として受け止めることは決してないし、「過程」の中に生命活動的な何らかの意味合いを見つけることが出来る日本人だからこそ、それらの精霊であれ、こびとであれを使いこなすことが出来たとも言える。

 その精霊、こびとの正体とは『菌』のことだ。日本に独特のものづくりの文化の中に味噌を造ったり、酒を造ったりする技術があるが、あれらはまさに『菌』という精霊、こびと的な目には見えないが、存在するものの力を借りて作っているものだろう。納豆にしても同じだ。そして、納豆においては顕著だが、西洋の人間達はそれらを受け入れることが難しい。また寿司にしても以前は酢飯ではなく発酵させていたものが本来の寿司だとも言われている。

 発酵したものを創る文化は日本に限られたことではないが、大豆や米を発酵させて食品や酒を造る文化は日本独特のものと考えてよいだろう。おそらくだが、西洋人は何故かビジュアル的なものにこだわる傾向がある気がして、いかにもキラキラ・フワフワしたものでなければ精霊・こびととして認知をしないような気がするが、日本人はそういう感覚があまりなく、そういった『菌』も自分たちの仲間であり、家族の一員として受け入れていたような気がしてならない。それこそ、我々の体内にはさまざまな『菌』が住んでいて、それらと共に生きている。悪い菌もあるが、それこそ良い菌が我々の体内に住んでいなければ、それこそ病気になったりすぐに死んでしまうこともあるだろう。 

 「結果」にコミットする西洋人達に「自分たちは『菌』と共に生きている」という発想を持つことは出来るのだろうか。それこそ人間という個体を、機能的に考えてどこかに故障が出れば、その故障個所にフォーカスして対処方法を考えるというような、目に見える世界の中の世界観に帰結している気がしてならない。

 そして、やはりそれは日本語という言語構造からしても「目に見えない何かしらの力」を動かすような構造になっていて、そういった言語構造の言葉を日常使っている我々日本人は、やはり「目に見えないけどあるであろうなんらかの力」と共に生きている民族のように思えるのだ。そもそも西洋の言葉は、必ず「主語」から始まる。「I」だの「You」だのというそれなのだが、日本語は主語があってもなくても何故か言葉が通じてしまうのだ。それこそここに「見えない何らかの力」を動かしてしまう秘密があると言って過言ではないだろう。

 それこそ『菌』よりも目に見えない精霊でありこびとを使うことが出来るのが日本語なのかもしれない。もちろんそれらは西洋の言葉も原理さえ分かれば使うことができるのだが、日本語はその今ここで言うところの精霊だのこびとだのを読んでくる原理、仕組みが分からなくても勝手にそれらを呼び寄せてしまう言語になっているのだ。もうすでにお分かりとは思うが、言葉によるそれらを召喚する原理は『曖昧さ』にある。あきらかに日本語と英語の言語構造を比較すれば、日本語の方が英語に比べて『曖昧さ』を持っている言語であることは疑う余地がない。おそらく西洋人達には、日本人達の『曖昧』でまわりくどいものの言い方にストレスを感じる者達もいるかもしれない。その反対に英語話者のあの直接的な言い方は、私にとっては少なくともストレスを感じずにはいられない。海外に行くと、あまりにも西洋人達が人と物を同じように扱っているようにも見えてしまうし、常に命令されているような気がしてしまうのも、別に彼らの性格がどうこうというよりも、その言語構造がそれらを創り上げてしまっているのだからしょうがない。ということは、言語が人の性格 の輪郭をつくっているとも言えなくもない。

 この『曖昧さ』であれ、まわりくどさの中に日本人性が潜んでいるような気がしてならないので、『菌』であれ発酵技術のようなものは時間がかかる。そして、日本人は『菌』そのものをただの現象としてではなく、生き物として寵愛しているようにも感じる。「共に生きている」という感覚だ。ワインやビール、チーズやヨーグルトなど西洋にもそれらのものは確認できるが、日本人のように「菌と共に生きている」という感覚でそれらを果たして作っているのかというと怪しいところだ。もちろん彼らに聞いてみなければわからないし、西洋人という領域においても、その中でも周波数の高低差はあるのだろうから、日本人的な西洋人も存在するだろうから、日本人的な世界観に近い世界で生きている人達が、そういった発酵文化を見つけた可能性もあるだろうし、そうではない可能性もあるが、少なくとも、日本人の発酵文化は、やはり低周波的であり、結果にコミットしている世界観ではなく、過程を大事にして、さらに『菌』というお友達との共同作業の中でそれらのモノたちを共に創り上げている感じがするのだ。

 そう考えると、日本的というか「和風」というか、日本を感じさせるものというのは、自然と共に創り上げている感じがするものが多いと感じるのは私だけだろうか。無機質な感じの鉄筋コンクリート的なものであったり、金属的なものに「日本っぽさ」を感じる事は無く、やはり木製であれ、自然物で創られたそれらのもの達に我々は「日本っぽさ」を感じる。そもそも植物一つとっても、育つのに時間がかかる。これは言ってみれば低周波的なゆっくりとしたスピードで育ったものを使って、何かを作るという営みであって、それが鉄筋コンクリート的な人工的な材料で創られたものは材料をつくるにも一瞬とまではいかなくても、ここで言うところの高周波的な材料を用いて作っていると見ても良いのではないだろうか。

 その両者を比較すると、やはり「馴染ませるまでに時間がかかる」というような「馴染む」というコンテクストが存在しているのではないだろうか。そして、「大和魂」というものは、その培ってきた伝統によってすでに我々日本人は、本来意識しなくても自然のそれらに自然と馴染んでしまっていて、一種の同化のような現象が起こっていると考えても良いのかもしれない。そういった意味合いにおいても、日本人は精霊、こびと使いだという仮説に対しても、それほど間違った方向には進まないような気がする。

 日本人は自然を愛し、調和し、そこに存在する目には見えないさまざまなものたちと、共に世界を創り上げる。そういった生き方の中に「大和魂」を発言するスイッチのようなものが存在しているような気がする。少なくとも、今の時代は昔の日本に比べれば相当『西洋』が入り込んでしまって、さきほどとき正反対に我々今の時代の日本人には『西洋』が当たり前のように馴染んでしまっているとも言える訳で、敢えて、「日本に馴染んでみよう」と意識的に、純日本っぽい自然と人々の生活が混ざり合っているような日本っぽい文化に触れてみたり、生活を数ヶ月に1度してみて「大和魂」を感じてみることは、我々日本人にとっては大事な事だろうし、それは今から百年経っても二百年経っても同じことが言えるだろうし、もし同じことが言えなくなってしまったときは、もうそこに「日本っぽさ」だとか「大和魂」は消滅してしまったことを意味するので、個人的には、「日本っぽさ」が長くこれからも残り続けて、独自の世界観を醸し出し続けてほしいと願わずにはいられない。

6:日本食という大和魂について実験した西洋人のお話

6:日本食という大和魂について実験した西洋人のお話

 

 『西洋』が日本に入り込んだ歴史を調べていると、一人のドイツ人の医者がやたらと登場するのでそのドイツ人の事を調べてみた。そのドイツ人の名前は、エルヴィン・フォン・ベルツという明治時代に日本に招かれたお雇い外国人の一人のようだが、彼の考えや発言を見ると、『西洋』だから高周波的で早い安いうまい的なチープな世界観を押し付けるものではない事が分かる。それこそ、「伝統」を重んじる大切さを説いている洋の東西を意識させない思想の持主なのであろうことがベルツ本人の発言からして窺える。

 私自身、もちろんワイン一つとっても『西洋』が何事においても雑で無機質なものを創り出していないことについては存じているのだが、それこそ医学の世界では、悪い部分があればその悪い部分をどうにかするという「結果に対してなんとかする」という手法がやはり『西洋』的であって、東洋の考えは、「結果」に対しての原因であり過程との対話により処方を考えるという手法と比べるとやはり、『西洋』のそれらというのは「結果」にコミットする価値観から創作された世界であることは否めない。

 とは言え、このベルツという人間は、調べている限りでは『西洋』的ではありながら、「過程」をしっかり大事にした上で物事の分別をしっかりと吟味できる人物だった事は間違いない。むしろ、ベルツの発言を見ている限り、『西洋』という新しいそれらを目の当たりにして、自分を見失い浮足立ってしまったのは日本人であるお前たちの方で、その姿が非常にみっともないし、情けないというような苦言を呈し続けている気がしてならない。ベルツの主張には何よりも「それぞれの伝統を重んじる事」。その土台があってこそ、の異文化交流である事を訴え続けている。「受け入れるのは良いが、魂まで投げ打ってまでして取り入れてしまえばそれは奴隷や傀儡と変わりはしない。」という事をベルツは述べている気がしてならない。

 そう考えると、『西洋』に対して、我々日本人が無駄に尻尾を振りだしたのは何も戦争に負けて逆らうことが出来なかったからではなさそうだ。個人的にこれに似たような事をサッカーの世界でそれこそフラクタルな関係として見たような気がする。「スペインの真似事をして日本も世界一になれ」というような馬鹿な指導者がいるが、まさに歴史上で、日本が『西洋』にかぶれてブレブレになったその歴史とまったく同じことを発言しているのだ。歴史から学ばない人間、歴史から学べない人間というのは非常に恐ろしいものがある。

 そういった日本という伝統を無視し、ただひたすら『西洋』に尻尾を振る売国奴的な発想の持ち主達は、「民族」というコンテクストが完全に抜けていて、そこに存在する「伝統」から練り上げて作られる「魂」というものの存在を知らないようだ。だから、簡単に自分の生まれた土地の「魂」を安売りして、「我々も『西洋』の真似事をして世界のトップクラスに立とう!」というような恥ずかしいキャンペーンを声高々とし始めるのだ。

 正直なところ、「伝統の安売り」的な事は個人的には戦争よりもやってはいけないようなことがしてならない。言う事も許されない位の話のような気がしてならない。もちろん法律上、自由の範囲内にあるので言う事は自由なのかもしれないが、「結果が出るのであれば、日本人としての誇りなんて捨てちまえ。」みたいな、そういうことをよく公衆の面前で言えるなと個人的には呆れてしまう。

 何度も誤解の無いように述べるが、「『西洋』のものなど取り入れるな!」という鎖国主義的な意見を述べている訳ではない。しかし、「大和魂」という日本の伝統的な土台まで捨てて、『西洋』人ごっこをしてそれによって結果が出たとしてもそれは日本人が素晴らしい事を証明したのではなく、「日本人は猿真似がお上手」という事を証明しただけに他ならない。そんな猿真似の為に、自分の有限なる人生を費やしたいとは思わないし、そのような事を偉そうに主張する者たちを私は指導者だとは思ってもいない。

 さて、そのような百円ショップ並みの安さで、日本人としての魂を安売りする連中の事はさておき、日本の伝統を大事にするよう主張したドイツ人・ベルツが行ったある食事の実験についての話を取り上げてみたい。

 ある車夫が長距離を何度も馬を乗り換えて進んだ時間と同等の時間で人を運んだのだが、車夫に何を食べているのかと聞いたところ、玄米、梅干し、大根の千切りのみそ汁、たくあんだけだったという。そこで、ベルツは、肉を与えたらどれだけ凄くなるのか思いと肉を食べさせてみた。肉食に変えたところ、すぐに根をあげてしまい、元の食事に戻してくれと訴えて来た。元の食事に戻すとまた元気に引っ張れるようになったという話なのだが、ここにも「日本食の凄さ」というものが垣間見える。

 この話だと、肉食は何も良いところがなさそうなのだが、おそらく瞬発的な力を発揮するのは肉食なのではないだろうか。ここでまた「瞬発的(≒高周波的)」と「持続的(≒低周波的)」な世界観が見え隠れしている気がしてならない。もはや日本人というコンテクストは、低周波的な生き方をしているのだから、肉食といった「瞬時の結果」を出すようなある種の高周波的な食事をとれば、パワーも出なくなるし、持続力が失われてしまうのは当然の事ではないだろうか。やはり、日本人にはそれこそ低周波的ともいえる玄米であれ、菜食のような食べ物が、力が日本人的なパフォーマンスとして出ると考えて妥当だろう。それこそ、日本人であればなおさら「結果」ではなく「過程」を考えた上で、その過程の中身に、エネルギーであれ、メッセージを込める必要があると考えてよいのではないだろうか。たしかに、『西洋』的な考えからすれば、面倒くさいだろうし、何も考えずに瞬時に届く『西洋』式は労力のようなものがなく、あるコンテクストにおいては非常に効率的な事は間違いないだろう。

 ただし、それは日本人的ではないし、折角我々に搭載された「大和魂」ならではの備わっている特別な機能を捨てて、『西洋』的なエンジンの真似事をしているだけに過ぎないと言えるだろう。やはり日本人特有に備わった機能を使ってこそ、使いこなせてこそ、世界を本当の意味で驚かせることができると考えるべきだろう。それは政治の世界においても学問の世界においても、スポーツの世界においても、その他すべてのジャンルにおいて同じことが言えるだろう。

 さて、では「日本人は農耕民族だったのだから肉なんて食わずに米を食え」という考えに落ち着けばよいのかというと、「いやいや、稲作なんてどっちかって言えば最近の出来事で、その前は日本人だって肉食ってただろうがよ。」的なツッコミが来ることは否めないし、そこについても考える必要がある。なんとなく調べてみればやはり原始的な時代はそれこそ「人間達が何かを作って食べる」などという頭の良い事をしていなかっただろうから、そこらへんにあったものを採ったり、獲ったりして食べていたことは間違いないだろう。

 また、ここでは「食事」についての考察になっているが、それこそ「食事」とは「結果」なのだろうか「過程」なのだろうかと考えれば、これはどこまでの幅を捉えて考えるかによっても変わるが、たとえば「生活」というコンテクストで考えた時、「食事」とはひとつの「結果」にも見えるし、「過程」にも見える。それはどういうことかというと、「何を食べて」というここだけで日本人がどうこうとか大和魂がどうこうとか考えてもあまり意味がないのではないだろうか。何故、食べるのか?それは活動するために食べていると考えてよいのではないだろうか。先ほどの車夫の話にしても、彼はとんでもない距離、とんでもない時間を人を載せて人力車を運ぶという仕事をしている。この活動においては、彼がしていたような菜食が力を発揮するのであって、我々現代人的な生活をしている人間が、同じ食生活をしたところで日本人特有のパワーが発揮されるかと言えば、まず発揮される事は無いだろう。「日本人的な食事」にするのであれば、「日本人的な活動」も心がけない限り、「大和魂」が持つ本来のパワーなど発揮されることがない。菜食だけして、デスクワークしていたところで健康になどなる訳がない。

 ベルツの車夫の話は、「車夫」だからこそそういう結果が出た訳であって、我々現代人に同じ結果が出る訳がない。と言いたいところだが、そうでもない実験結果などがある。俗に言う「カーボローディング」と言われるようなものだが、実際のところ時代が経つにつれて食べ物自体の質が変わってしまったため、もしも「食べ物」で「大和魂」を発動させるには非常に難しい時代になっていると考えた方が良さそうな気がしてならない。

 というのも、おそらく昔の日本人が食べていたニンジンやジャガイモは、我々の知っているニンジンやジャガイモと違うような気がするし、米にしてもその時代の米と今の時代の米は違うだろう。それらのすべてを戻して、「良き日本を」などということをすれば、車に乗る事をやめ、それこそ機械を使わずに農業をして生活しろという事になる。これが間違っているかどうかは分からないが、やはり古い感じがしてしまうのは、すでに私自身が『西洋』にかぶれている証拠なのだろうか。

 もしも、この先五十年後、百年後どういう文明になろうとも、日本人には「大和魂」というエンジンが備わっていて、そのエンジンを発動させなければ面白みがない。という考えについては私の考えは変わる事は無いのだが、社会が進化していく上で、原始的な活動を一辺倒に推進していくというのもそれこそ「だったらお前はこんな時代に生まれずに、原始時代に生まれて生きてりゃいいじゃないか」とDisられそうなので、「今の時代における大和魂を発動させる生き方とはどういう生き方なのか」という問いに対する建設的な答えを見つけ出すことが、この「大和魂の研究」というテーマであーだこーだと考えたり、述べたりすることにおいて建設的な営みなのだと考える。

 そうすると、ちょっと意識しただけで取り戻せるものもあるし、時代が進みすぎて取り戻せないものもある。「食事」に関しては、もう時代が進みすぎてしまって昔のよきものを取り戻すことはほぼ不可能に近いレベルで難しいと考えてよいだろう。そもそも米やジャガイモを日本人が今現在どのように作っているかと言えば、農薬をばら撒いて機械を使って作っているところがほとんどなのだから、もはやそうやって作られた穀物であれ野菜を食べたところで、日本人らしいパワーが我々に備わるのかと言えばなかなか怪しいところなのではないだろうか。なので、今の時代において「食事」の部分で気を付けることは「自分は何を食べると力が出るのか出ないのか」という事を、客観的に自分で自分を観察して、知っておくことが一番大事な事なのかもしれない。もちろん、日本的な「お百姓さんに感謝」的な「この食べ物をつくる過程そのものを食べる」という目に見えない食事をする事は、日本人であればここを意識する事は音に倍音的なエネルギーが込められていたのと同様、なんらかの見えないエネルギーが、我々日本人は取り入れることが出来るようになっているだろうし、それが「日本人性」であって、「大和魂に備わっている特殊機能」との部分だと私は推測している。

 日本語という言語であれば、そこに機械であれ効率的であるかどうかという要素は排除して、昔の日本語としてのパワーを取り戻しところで、生活が原始的な生活に戻る事は無いが、食事に関しては昔に戻そうとすると生活自体が原始時代っぽくなってしまう。それらを体験する事は非常に大事だとは思うが、生活そのものを原始時代に戻すのはやり過ぎだと思うし、それこそ日本も世界の一部なのでそんなことをしたらそれこそ世界の笑い者にされるだけだろう。とは言っても、日本の歴史であれ、「伝統」を重んじることは、大和魂の発動を促す必須要素であることは間違いないので、物質的にそれら日本人らしい食べ物を日本字らしく作って食べることが難しかったとしても、「自分の内側の世界」では日本人らしい食事を心がけることは非常に重要な事だろうし、私の主張では、「自分の内側の世界」がこちらの「自分の外側の世界」に投影されていると考えているので、「自分の外側の世界」の食べ物であれ、文化が日本人的でないのは、「自分の内側の世界」が日本人的な世界観であれ、概念が薄れている事の証拠なので、基本的には、外側の物質に意識を向ける事よりも、内側の概念であれ情緒的なものに意識をむけて日本人らしい世界を「自分の内側の世界」に想像して生きていれば、「自分の外側の世界」に関しても、今の時代におけるパーソナルベスト的な「大和魂」の発動ができるように、魂の純度は高まっていく事だろう。もしも、食事に関わらず、「自分の外側の世界」が『西洋』にかぶれてしまっている事に気付いたのであれば、それは「自分の内側の世界」が、『西洋』にかぶれてしまっている事を意味すると考えてみてもらいたい。それを意識するだけでも、我々は「大和魂」を自分の内側、外側両方の世界に取り戻すことが出来るはずだ。

 大事な事は「どうやっても時代に逆らわないと難しい事」と「受け入れる必要がないのに油断して受け入れてしまう非日本的なもの」の区別を自分なりに意識して考えて、何を選択し、何を選択しないかという自分の人生のコントローラーを自分で握り続けることが最重要であることは民族の違いに関係なく、人間に共通して言える事なので「日本人」の下には「人間」という土台が地層のようになっているのだから、まず「人間」としての土台、その上に「日本人」という土台。そしてその上に「自分の人生」という建物が建っていることになる。ここのそもそも人間の仕組みに関してあーだこーだ言ったところでこの仕組みを変えることはどだい無理なのだろうから、人間として生まれてきてしまった以上共通の課題には目を背けずに向き合いつつ、「日本人」という「大和魂」という特殊なエンジンの搭載されている乗り物を乗りこなすことが出来れば、次第に自分自身に偉大なパワーが発揮されて、さまざまな不可能を可能にすることが期待できる。そういう生き方を私はもっとしてみたい。

5:西洋が入ってくる前の日本との対話をしてみる

5:西洋が入ってくる前の日本との対話をしてみる

 

 前項では日本の言語まわりから「大和魂とは一体何なのか」を探り出すというか炙り出してみたのだが、個人的にはなかなか良い線をつけた気がしてならない。「大和魂」とは低周波的であり、表現に倍音を内在させるひと手間加える的な要因があることを確認することが出来た。私自身、『大和魂』の中に含まれる要素としてこの「ひと手間かける」というか「何かしらの工夫」のようなものがある気がしてならない。そしてそれらは、西洋のそれらのようにそれをパッと見ただけでは、パッと聞いただけでは理解できない、なんらかの深み的要素があるような気がする。それはスローだからこそ確認できる何かしらの対話した後であったり、何かと格闘した後に確認できる汗のようなもの、そこに『大和魂』が集約している気がしてならないのだ。

 日本とそれ以外の国の違いは何なのだろうと考えてみればやはり開かれた土地であったか、閉ざされた土地であったかという部分があるだろう。つまり日本はある意味非常に「有限的な世界」だったということだ。その中で、領土として限界が来た時、日本人は日本人的創意工夫によって、この日本的なる世界を創造していったと考えてよいだろう。

 さて、この項は『西洋』が入ってくる前の日本について考えてみたい。『西洋』が入り込んできた分岐点のような時代は、簡単に言えば三つあるような気がする。一つは社会科の歴史の教科書に照らし合わせれば、フランシスコザビエルが日本にやってきたあのあたりであり、二つ目は明治維新あたり、そして三つ目は大戦で敗戦後にアメリカ様が日本を統治したあたりだ。その三つの時代で西洋が、日本に入り込んだ時に導入されたものはなんなのかを「大和魂が衰退した理由」として何かしらのヒントを見つけ出すことが出来ないかを考えてみたい。

 まず一つ目のフランシスコザビエルだのルイスフロイスだのといった宣教師達が日本にやってきた時代の事を考えてみると、あの時代に入ってきた大きな西洋的要素は、キリスト教と鉄砲ではないだろうか。それまで日本にはキリスト教などという宗教は日本人の「自分の内側の世界」には存在することがなかった。簡単に言えば「天使」という概念はそれまで我々日本人の中には存在していなかったという事だ。「隠れキリシタン」などという言葉があるが、日本人の民を統治する者達は、キリスト教を恐れた。中にはキリシタン大名的な存在もいるが、豊臣秀吉であれ、徳川家康キリスト教が広まる事を恐れた。織田信長に関しては、キリスト教をそれ程恐れていないような印象を受ける。それこそ、織田信長自身がキリスト教的発想の持ち主だったのかもしれない。ただ単に、それまでの日本の宗教をあまり好き好んでいなかった可能性もあるが、そこに関しては織田信長本人に聞いてみないと、実際のところはよく分からない。

 とは言え、織田信長は『西洋』を受け入れる事に積極的な思想の持ち主だった気がしてならない。それこそ「これまでの日本をぶっ壊して、あたらしい日本を創りたかった」ようにも思える。そして、それは人体の仕組みとして起こるホメオスタシスのような作用が、日本という1つの生命体の中でも起こったのではないだろうか。織田信長が死んだ後は、豊臣であろうが、徳川であろうが、『西洋』を取り入れることをそれ程積極的に行わなかった事実があり、家康の孫の代では「鎖国」と称されるように、『西洋』を取り入れることを反対に積極的に閉じる方法に進んだのは、歴史が示している通りだろう。

 まず、『西洋』の宣教師たちはなぜ、彼らの国から見てみればこんな最果ての地までやってきたのだろうか。日本をどのように見ていたのだろうか。おそらく、彼らは日本を植民地化しようと考えて妥当だろう。その後の歴史を見ても『西洋』がアメリカ大陸であれ、アフリカ大陸であれ、アジア地方の国々を植民地化している事実からすれば、日本とだけ仲良くお友達になろうなどという発想は考えられない。むしろ彼らは肌の色が白くなければ自分たちと同じ人間ではないぐらいの考えでいたと考えるのがそれこそ妥当だろう。そうでなければ「植民地」という言葉というか世界観自体が「自分の外側の世界」に投影される事は無いからだ。そう考えると、通常の日本人で、しかも天下統一するような大物であれば、『西洋』というウイルスが日本という体内に入り込むのを拒もうとするのは自然な反応のような気がするし、どういう理由かは分からないが織田信長だけがブッ飛んている気がして、それこそ一番怖いのは、外部からの侵入よりも内部から崩壊してくことの方が恐ろしさを感じるのは私だけだろうか。そして、徳川家康が最終的にこの時代の覇者になったのも何か日本的な低周波的な見えない何かに内在するエネルギーの強さのようなものを感じずにはいられない。見方を変えれば、日本に愛されたのは、織田でもなければ、豊臣でもなければ、徳川だったのだから。それこそその前には今川だの武田だのいたのに、この時代に愛されたのは徳川であり、徳川の時代は約260年も続いた。またこの江戸時代という世界から見たらおそらく不可思議な世界観を醸し出していた時代こそが、日本を日本たらしめる低周波的なゆっくりと日本という国を熟成させる期間だったのかもしれない。そもそも江戸自体の前の時代は日本の中にいくつもの国があって、日本人同士が殺し合って領土を奪い合っていた時代なのだから、それらが1つの「日本」という国になって、まとまっていくためには『西洋』なんてものに入り込まれたらそれこそ、日本という国の独自性は今現在のようにまとまらなかった可能性が高い。アメリカがイギリスっぽくないのと同じで、なんだか雑種っぽいよく分からない国が出来上がってしまった可能性が高いし、そもそも今の時代の日本は、多少なりとも雑種っぽい雰囲気を醸し出している。

 そういう意味合いにおいて、良くも悪くも、そしてたまたまなのかもしれないが、日本が日本として引きこもっているこの時間は、非常に貴重な時間だったような気がしてならない。もしかしたら、日本が鎖国をしていなければ、日本の領土は今とは全く違うもので、それこそ世界の覇権を握っていた可能性もなくはないのかもしれないが、その場合は、完全に日本人は「大和魂」を捨てて、ただの強欲な世界の覇者に成り下がっているだけの可能性が高い気がしてならない。もちろんそれを成り上がりと解釈することも出来るのだが。

 しかし、「日本人性」という観点で考えれば、今の領土のサイズと、日本という独自性を大事にする民族として生きることが望ましかったような気がするし、それが良くも悪くも「日本人らしい」生き方のような気がしてならない。そもそも日本人が国を奪って領土を広げていくという生き方に向いていない気がする。それは、言語の構造からしてそれらが窺えたように、言語だけでなくその他のコンテクストを踏まえて考えても、日本人というのは鈍行列車を楽しめるだけの情緒の豊かさを持つ民族なのだから、『西洋』のような世界支配ゲームに参加するよりも、日本という国の中で、「自分の内側の世界」の豊かさを目一杯楽しむ生き方を存分に味わうことが日本人としての幸せのような気がしてならない。それこそ、『西洋』かぶれしようとした日本人達にそのあたりの事をどう考えていたのかを聞きたい。ある意味の戦犯はその「大和魂」を売って、『西洋』の真似事をしようとした者達なのではないだろうか。とはいえ、その「自分の外側の世界」の豊かさよりも、「自分の内側の世界」の豊かさを味わう民族を、『西洋』がそうっと見守ってくれるかどうかというと、それは別問題だし、『西洋』的に考えれば、大人しくしていてもいつの間にかガブリとやられてしまうのが関の山なのだろうから、日本が『西洋』にかぶれようとしてみたり、好戦的になっていたのもそれはそれで必要な事だったのかもしれない。

 しかし、今の時代においては相当の事がない限り、日本が『西洋』にかぶれることなく、日本人らしさを追求する事でミサイルを落とされることはないので、もう一度『西洋』が入り込む前の「日本」を思い出してみて、やはり日本人としてのパワーが最大限出るような生き方であり、「大和魂」という国産のエンジンを搭載して日本人が日本人らしいパフォーマンスを発揮して、日本人の独自性がもっと発揮できるような生き方を見出すべきだと考える。そもそも『西洋』の宗教観ではない我々日本人が、『西洋』にかぶれたところで、なんだかよく分からない世界が創られるだけだろうし、そもそも、その奇妙な世界観を、日本の外側の国の人間達は面白がるかもしれないが、それは自分たちの発想とは違うなんだかへんてこな世界観が浮かび上がる事を面白がっているだけで、それほど彼らはリスペクトなどしていないのではないだろうか。

 もしも、本気で「『西洋』の者たちよ、どうだっ、これが日本だ!」と一発パンチラインをかますのであれば、もう「日本100%」を見舞うしかない気がしてならない。それこそキリスト教の伝統のない日本人が、いくら天使がどうこう的な世界観を創り出したところで刺身にケチャップつけて食べる奇妙なジャンクフードが出来上がるだけだ。またアマテラスオオミノカミやらコノハナサクヤヒメをキリスト教の世界観で描写したところで、なんだか醤油臭い西洋料理が出来上がるだけかもしれない。

 混ぜ合わせると力を発揮するものもあるが、混ぜ合わせることで微妙なパフォーマンスしか発揮しないものもあって、少なくとも「魂」という存在は、何かと何かを混ぜ合わすような事をしてはそれほど力を発揮できないような気がしてならない。

 しかし、日本は明治維新あたりで完全に『西洋』にかぶれだす。伊藤博文においては「今日の学問は全て皆、実学である。昔の学問は十中八九までは虚学である」と言ったようだが、ある種第二の織田信長登場と言っても良いような発言だ。織田信長はこんな卑屈な事は言わなかったかもしれないが、「日本の伝統」に関しては何も価値がなかったかのように捨ててしまうかのような発言だ。日本の近代化に向け一役も二役も買っているのだろうが、やはり日本という生命体は、伊藤博文織田信長同様にホメオスタシスしてしまったのかもしれない。事実、伊藤博文は暗殺されてしまっている。日本という生命体の意志はやはり日本というあの島国こそが自分自身なのだという主張をしているようにも見えなくもない。そして、日本という生命体そのものが『西洋』にかぶれたいと思っているように見えない。それこそ、日本語の母音に込める倍音メッセージではないが、日本という生命体に耳を傾ければ、この日本という島国が何を望み、どのようなメッセージを発しているか、それこそ我々日本人であればそのメッセージを聞き取ることが出来ると信じたい。

 「大和魂」とはその日本という生命体の声を受信する目に見えない内臓と言っても良いかもしれない。そして、我々も「大和魂」という発信機によって日本という生命体に語り掛けることが出来る。そこに『西洋』的なものが混ざれば、雑音だらけで聞き取ることも出来なければ、もはやそこにチャンネルを合わせる事すらできず、「大和魂?何それ?」という事になってしまい、ただの『西洋』かぶれした高周波的な「日本」というコンテクストにそぐわない何かの猿真似的なそれこそ二番煎じ的な魂でしか生きることが出来なくなるだろう。もちろん、それらを選択するのは本人次第だが、私個人としてはせっかく日本人として生まれてきたのだから、純日本的な生き方を追求した上でこの世界を味わいたい。そうでなければはじめから『西洋』の国に生まれてくれば良かったのだから。日本の外側の何かを取り入れる前に、まず日本式のそれらを徹底的に学ばない限り、何をやったところでその目に見えない皮膚はかぶれてしまう事になる。

 しかし、そもそも日本の教育が「大和魂を学べ」という内容のものではなく、すでに『西洋』にかぶれてしまっているので、それこそ三つ子の魂百までもではないが、今の時代の日本人の多くは、かぶれているのではなくはじめから『西洋』っぽい生き方をしているので、もはや我々は日本人なんだか何人なんだか分からず、とりあえず日本語をしゃべってる『西洋』っぽい生き方している人間みたいな括りになってしまっている可能性は高く、過去の時代の日本人達が私たちを見た時に我々を見て喜ぶのか、憂うのかそれとも嘆くのか。やはり先輩たちは我々に対して「日本人としての誇りを持て」と説教してくるような気がしてならない。もちろんその「日本人としての誇り」の中身も各時代によって込められているエネルギーは違うとは思うが。

4:ボインとhigh and low、倍音にRide on野郎、死因はアイアンクロー

4:ボインとhigh and low、倍音にRide on野郎、死因はアイアンクロー

 

 どっちの味方かなんて関係ない。この勝負がおもしろくなればそれでいい。というある超人の名言がある。そう考えた時、もうどっちの読み方なんて関係ない。そこの場で押韻できるのであればそれでいい。という精神を私は忘れたくない。それによってこの本の品位が著しく下がったとしても、強引に踏んでいきたいし、そこは貪欲に行きたい。むしろその精神にも「大和魂」は内在していると信じたい。そして金字塔を打ち立てたい。そして自らの手で切り開きたい新時代。

 さて、ようやく温まってきたところで、前項では言語の周波数という観点から、大和魂の重要な要素として1つの仮説を立ててみたのだが、今回も音に関するコンテクストから大和魂の要素を見つけ出してみたい。それは、以前から私が気にしていたある「音の秘密」のような話がある。それが倍音だ。

 とりあえず、倍音とはこのような辞書で調べてみると、

 

倍音

上音の一。振動体の発する音のうち、基音の振動数の整数倍の振動数をもつ部分音。ハーモニックス。

 

 という説明なのだが、正直なんのことだかよく分からない。基本的には鍵盤で叩く「ド」の音の中にも「ド」だけではなくさまざまな音が入っているというのが音の基本であって、ひとつの音に聞こえるようでもそれらの音の中には、複数の音が入っているし、入れることも出来る。ここと倍音が関係がある。

 たとえば「し」という音だが、日本語で「し」という音の意味は、「死」であり「師」であり、「詩」というものがあるが、「しをかく」といった場合に「死を書く」とは言わないし、「しをかくごした」といった場合に「詩を覚悟した」とは聴こえない。もちろん文脈上の意味もあるかもしれないが、「死」の時に発する「し」と、「詩」の時に発する「し」は違う。これは何が違うのか「音に表情がついている」のだ。日本語はこの「音に表情をつけることができる言語」といえる。それに対して西洋の言語は音に表情をつけることが出来ず、もしも言葉を強調するためには音量をコントロールする方法しかない。言ってみれば「凄み」的なものを日本語にはつけられるが、

西洋の言語には「凄み」をつけることが出来ない。

 そこに関わってくるのが「母音」と「子音」なのだ。日本語は母音がメインで使われている言葉であることに対して、西洋の言語は子音がメインで使われている言葉であるため、ここにそれぞれの言語の性質の大きな違いを見つけることが出来る。それはまさに「大和魂の要素」とは何かという秘密に迫ることが出来る一要因を見つけたことになるのではないだろうか。そして前項の低周波の日本語、高周波の西洋語というこの関係とも一致しているのではないだろうか。

 西洋人達の発音は口を大きく開けて発生するため、顔の表情が豊かに見える。それに比べて日本人の発音は口をそんなに大きく開かないため顔の表情が乏しい印象を与える。これが何を意味しているのか?それは西洋人の発する言葉の音には表情がなく、日本人の発する言葉の音には表情があるという事を物語っているとも言えるのだ。

 それはどういう事かというと、西洋の言語は子音がメインになっているため、子音に倍音によって表情をつけることができない。しかし、日本語は母音がメインになっているためそこに倍音をのせてさまざまな音の表情を作り出すことが出来る。ここに日本語と西洋の言語の違いを見出せる。

 そして、現在の発声法は日本式の発声方法ではなく、西洋式の発声方法を取り入れる傾向にある為、音に表情をつけるのではなく、音量によって言葉を相手に届けるやり方にシフトしてしまっている感がある。それは日本語の構造的に不適合な発声法であり、発声というものは呼吸の仕方にも直結しているので、ここに「大和魂」を我々が失った要因を見つけることが出来るのではないだろうか。

 例えば、若者たちは演歌を聴かないし、興味もそれほど持たないだろう。やはり民謡であれ、演歌であれ「日本的な音楽」を感じさせるそれらの音楽は、倍音を意識した音楽が多く、時代が進むにつれて西洋的な倍音をそれほど意識しない音楽が浸透し、そして日本人の音楽そのものも西洋化している。ここにも「音の咀嚼」という要素が関係している気がしてならない。つまり、西洋の音量のコントロールだけの音楽は、音を咀嚼する必要がなく、日本の音に表情をつけているそれらの音たちは、出す側にとっても入れる側にとっても「音の咀嚼」を必要とするのではないだろうか。

 ここでひとつ仮説として立つのは、「大和魂」というものは、やはり目に見えないところに内在するそれらの何か要素を多く含んでいる気がしてならない。人と人とのコミュニケーションにおいて、『メッセージ』というものはただの言葉の羅列ではなく、表情であれ、音に倍音をどう載せるのかという事などの総合的なものが『メッセージ』として届くとすれば、西洋的なメッセージの発信であり受信というものは、それこそ表面的に出ているものであって、日本的なメッセージの発信であり受信というものは、その言葉の奥に入れられている何かエネルギー的なものと比較することが出来るのではなかろうか。そうすると、最近流行りのメールだのチャットだのというやり取りが、西洋的であるのか、日本的であるのかという事も分かってきて、やはり言葉の中にエネルギーを込めて伝える言語である日本語の場合、音を発する事の重要性というのは大いにある気がしてならない。

 音から表情がなくなった時、日本語から「大和魂」は失われる。海外に『言霊』という概念が存在するかどうかは分からないが、今回の倍音というコンテクストと、その国の言語が母音メインか子音メインかという事で考えれば、子音メインの言語の国の人々には『言霊』という概念はおそらくないし、あったとしても違うコンテクスト上の意味合いのものを言っているのだろう。おそらく、素直に考えれば『言霊』の正体は、この「母音に倍音を載せて音に表情をつける」というここに集約されているのだろう。

 そう考えると、これもまた「言霊」だの「音魂」だのとオカルトチックな事を勝手に自分の思い込みで妄想世界に憑りつかれる人たちの格好の餌食になってしまう『言霊』なのだが、基本的にはこの母音メインの言語である日本語の言葉にしっかり倍音によって表情をつけた言葉の音の事を『言霊』と呼ぶのであろうから、それは決して魔法のようなものではなくて、それらの原理さえ分かっていれば我々日本人は『言霊』を操ることが出来るということになる。そして、オカルト大好き人間達がありもしない世界観によって創っている呪文のような言霊世界など「自分の外側の世界」には存在していない。だけど、西洋の言語にはない、言葉に倍音を載せる技術(=言霊技術)は実際に存在しているのだ。

 そしてそれらは身体にも影響を及ぼすのは当然だ。今現在、西洋式の発声方法で日本語を話すという事はどういうことかというと、刺身にマヨネーズをつけてたり、ソースをつけて食べているのと同じだという事だ。日本で食べる寿司と西洋で食べる寿司のクオリティのあまりの違いを知る者であれば分かりやすいと思うが、日本的なものを西洋的に表現すると、西洋的なあのクオリティの低い寿司のような状態が起こる。

 もしも我々が「言葉の発生の仕方」が西洋的になり、我々の日本語の『言霊』クオリティが西洋の国で食べる寿司クオリティに成り下がってしまっていたとしたら、それは普段のパフォーマンスが落ちるのも当然だろう。昔と違って社会がグローバル化しているのは当然な事で、西洋の文化であれ、技術を鎖国的に受け入れるなという事を言っているのではないのだが、受け入れすぎて刺身にソースやケチャップをつけて食べてみるとか、西洋の国で食べる寿司クオリティに、日本的なものをいちいちベチャベチャにして、我々が本来持っているであろう「大和魂」をそうやってベチャベチャにして、何もかもを西洋かぶれにしてめちゃくちゃにする必要はないし、それこそせっかく日本に生まれてきたのにもったいないとしか言えない。ぺちゃくちゃしゃべるときにおいても、我々日本人は日本人としての誇りをもって、言葉に魂を込めてしゃべるそれこそ「日本人としての義務」のようなものがある気がするし、それこそ神さまがいるのであれば、日本人にGiveしてくれた特別な贈り物の1つのような気がする。だから、我々日本人は一人一人が『言霊使い』であるという自負を持つべきなのだろう。