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原澤出版の執筆用ブログ

7:日本人は普通に精霊使い・こびと使いであるというお話

7:日本人は普通に精霊使い・こびと使いであるというお話

 

 前項では「日本人的なる食事」について考えてみたが、時代の流れに逆らうことまでして、無理やり日本人的な食事を追いかけることは幾ばくかのズレを感じてしまうので、それ以上の考察をすることはそれほど意味がないと考えたのだが、この項では日本人は普通に精霊使い・こびと使いであるというお話といういかにも妄想スピリチュアリスト達が好みそうなタイトルで、日本の独自性について考えてみたい。

 ここまでの項の内容の中で、日本人は「目に見えない過程のようなもの」を大事にする生き方をしている民族ではないかという予想に辿り着いたわけだが、「目に見えないファンタジーの世界の生き物」というのは日本にでも西洋にでも形を変えて描かれている訳だが、日本人は実際にファンタジーという「自分の内側の世界」にだけ存在する概念的な精霊でありこびとを使うという空想大好き人間ではなく、実際にこの「自分の外側の世界」の中で、物質的にある種の精霊であり、こびとを使ってものをつくる技術を持っているのだ。もちろんそれらを精霊と呼ぶかこびとを呼ぶかは別の問題ではあるが。

 実際にそれらの文化は西洋でも見ることは出来るが、おそらく同じような事をしていても「結果」にコミットする西洋人はそれらの事を精霊とも思わなければ、こびとだとも思わない事だろう。ただそれがそうなったという結果であり、ある種の化学反応的な形でしか認識できないのではないだろうか。

 しかし、「過程」の中にエネルギーを込めることができる日本人は、それらを「結果」として受け止めることは決してないし、「過程」の中に生命活動的な何らかの意味合いを見つけることが出来る日本人だからこそ、それらの精霊であれ、こびとであれを使いこなすことが出来たとも言える。

 その精霊、こびとの正体とは『菌』のことだ。日本に独特のものづくりの文化の中に味噌を造ったり、酒を造ったりする技術があるが、あれらはまさに『菌』という精霊、こびと的な目には見えないが、存在するものの力を借りて作っているものだろう。納豆にしても同じだ。そして、納豆においては顕著だが、西洋の人間達はそれらを受け入れることが難しい。また寿司にしても以前は酢飯ではなく発酵させていたものが本来の寿司だとも言われている。

 発酵したものを創る文化は日本に限られたことではないが、大豆や米を発酵させて食品や酒を造る文化は日本独特のものと考えてよいだろう。おそらくだが、西洋人は何故かビジュアル的なものにこだわる傾向がある気がして、いかにもキラキラ・フワフワしたものでなければ精霊・こびととして認知をしないような気がするが、日本人はそういう感覚があまりなく、そういった『菌』も自分たちの仲間であり、家族の一員として受け入れていたような気がしてならない。それこそ、我々の体内にはさまざまな『菌』が住んでいて、それらと共に生きている。悪い菌もあるが、それこそ良い菌が我々の体内に住んでいなければ、それこそ病気になったりすぐに死んでしまうこともあるだろう。 

 「結果」にコミットする西洋人達に「自分たちは『菌』と共に生きている」という発想を持つことは出来るのだろうか。それこそ人間という個体を、機能的に考えてどこかに故障が出れば、その故障個所にフォーカスして対処方法を考えるというような、目に見える世界の中の世界観に帰結している気がしてならない。

 そして、やはりそれは日本語という言語構造からしても「目に見えない何かしらの力」を動かすような構造になっていて、そういった言語構造の言葉を日常使っている我々日本人は、やはり「目に見えないけどあるであろうなんらかの力」と共に生きている民族のように思えるのだ。そもそも西洋の言葉は、必ず「主語」から始まる。「I」だの「You」だのというそれなのだが、日本語は主語があってもなくても何故か言葉が通じてしまうのだ。それこそここに「見えない何らかの力」を動かしてしまう秘密があると言って過言ではないだろう。

 それこそ『菌』よりも目に見えない精霊でありこびとを使うことが出来るのが日本語なのかもしれない。もちろんそれらは西洋の言葉も原理さえ分かれば使うことができるのだが、日本語はその今ここで言うところの精霊だのこびとだのを読んでくる原理、仕組みが分からなくても勝手にそれらを呼び寄せてしまう言語になっているのだ。もうすでにお分かりとは思うが、言葉によるそれらを召喚する原理は『曖昧さ』にある。あきらかに日本語と英語の言語構造を比較すれば、日本語の方が英語に比べて『曖昧さ』を持っている言語であることは疑う余地がない。おそらく西洋人達には、日本人達の『曖昧』でまわりくどいものの言い方にストレスを感じる者達もいるかもしれない。その反対に英語話者のあの直接的な言い方は、私にとっては少なくともストレスを感じずにはいられない。海外に行くと、あまりにも西洋人達が人と物を同じように扱っているようにも見えてしまうし、常に命令されているような気がしてしまうのも、別に彼らの性格がどうこうというよりも、その言語構造がそれらを創り上げてしまっているのだからしょうがない。ということは、言語が人の性格 の輪郭をつくっているとも言えなくもない。

 この『曖昧さ』であれ、まわりくどさの中に日本人性が潜んでいるような気がしてならないので、『菌』であれ発酵技術のようなものは時間がかかる。そして、日本人は『菌』そのものをただの現象としてではなく、生き物として寵愛しているようにも感じる。「共に生きている」という感覚だ。ワインやビール、チーズやヨーグルトなど西洋にもそれらのものは確認できるが、日本人のように「菌と共に生きている」という感覚でそれらを果たして作っているのかというと怪しいところだ。もちろん彼らに聞いてみなければわからないし、西洋人という領域においても、その中でも周波数の高低差はあるのだろうから、日本人的な西洋人も存在するだろうから、日本人的な世界観に近い世界で生きている人達が、そういった発酵文化を見つけた可能性もあるだろうし、そうではない可能性もあるが、少なくとも、日本人の発酵文化は、やはり低周波的であり、結果にコミットしている世界観ではなく、過程を大事にして、さらに『菌』というお友達との共同作業の中でそれらのモノたちを共に創り上げている感じがするのだ。

 そう考えると、日本的というか「和風」というか、日本を感じさせるものというのは、自然と共に創り上げている感じがするものが多いと感じるのは私だけだろうか。無機質な感じの鉄筋コンクリート的なものであったり、金属的なものに「日本っぽさ」を感じる事は無く、やはり木製であれ、自然物で創られたそれらのもの達に我々は「日本っぽさ」を感じる。そもそも植物一つとっても、育つのに時間がかかる。これは言ってみれば低周波的なゆっくりとしたスピードで育ったものを使って、何かを作るという営みであって、それが鉄筋コンクリート的な人工的な材料で創られたものは材料をつくるにも一瞬とまではいかなくても、ここで言うところの高周波的な材料を用いて作っていると見ても良いのではないだろうか。

 その両者を比較すると、やはり「馴染ませるまでに時間がかかる」というような「馴染む」というコンテクストが存在しているのではないだろうか。そして、「大和魂」というものは、その培ってきた伝統によってすでに我々日本人は、本来意識しなくても自然のそれらに自然と馴染んでしまっていて、一種の同化のような現象が起こっていると考えても良いのかもしれない。そういった意味合いにおいても、日本人は精霊、こびと使いだという仮説に対しても、それほど間違った方向には進まないような気がする。

 日本人は自然を愛し、調和し、そこに存在する目には見えないさまざまなものたちと、共に世界を創り上げる。そういった生き方の中に「大和魂」を発言するスイッチのようなものが存在しているような気がする。少なくとも、今の時代は昔の日本に比べれば相当『西洋』が入り込んでしまって、さきほどとき正反対に我々今の時代の日本人には『西洋』が当たり前のように馴染んでしまっているとも言える訳で、敢えて、「日本に馴染んでみよう」と意識的に、純日本っぽい自然と人々の生活が混ざり合っているような日本っぽい文化に触れてみたり、生活を数ヶ月に1度してみて「大和魂」を感じてみることは、我々日本人にとっては大事な事だろうし、それは今から百年経っても二百年経っても同じことが言えるだろうし、もし同じことが言えなくなってしまったときは、もうそこに「日本っぽさ」だとか「大和魂」は消滅してしまったことを意味するので、個人的には、「日本っぽさ」が長くこれからも残り続けて、独自の世界観を醸し出し続けてほしいと願わずにはいられない。