harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

7:日本とスポーツについての考察

7:日本とスポーツについての考察

 

 ここまでは、漫画・アニメ・コンピューターゲームという3S政策的コンテクストでいうところの「スクリーン」的な要素が強かったジャンルについての考察をしてきたが、今回は「スポーツ」について考察してみたい。実際のところ、スポーツは日本にどのように入り込んできたのだろうか。やはり、明治時代に『西洋』がドッと入ってきた時にスポーツも入ってきて、それからいろいろと入ってはきたり盛り上がったりして、今の時代に至るのだろう。そういうことで、おそらく力比べ、速さ比べだったり武道的なもので競い合ったりすることはあっても、あまり日本発の球技のようなものはなさそうだ。そう考えると、スポーツというものは『西洋』的な文化が強いと言えるだろう。

 そして、イメージ的にも事実としても日本人は野球を好む。ではこの野球は戦後、アメリカに首輪をつけられてから広まったものなのかと思えば、その前には野球は日本人に好まれていた風潮がある。しかも、野球は野球と日本では当たり前のように呼ばれている。「ベースボール」といちいち英語で呼ぶ日本人はほとんどいないだろう。それに比べ、サッカーを「蹴球」などと呼ぶ日本人はほとんどいない。サッカーはサッカーだが、日本人にとってベースボールは「野球」と呼ぶ。何が言いたいのかというと、そのくらい「野球」というスポーツは、「ベースボール」をこれまた日本人のセンスで「野球」という日本人的スポーツにしてしまった一つの例のような気がしてならない。

 バレーボールはバレーボールだし、ラグビーにしてもバスケットボールにしてもテニスにしても日本語的なよく分からない「庭球」だの「籠球」だのあるし、ごくたまに見かけるけど、そんな呼び方でそれらのスポーツの事を呼ぶ日本人など皆無に近い。「明日、籠球やろうぜ。」なんて言っている日本人を私は見たことがない。日本語で呼んでも馴染みがある球技は、「野球」と「卓球」ぐらいではないだろうか。まあ卓球は中国からやってきたスポーツだから漢字読みで当たり前なのかもしれないが、と言おうとして調べてみたら、どうやら卓球ももとは西洋のスポーツで中国が後に目をつけて国技にした歴史があるらしいのには驚きだ。とにかく、我々昭和生まれの人間にとっては日本人のスポーツと言えば野球というイメージが強い人間は多い事だろう。

 なぜ、日本人は野球を愛したのだろうか。おそらく野球というゲームの性質が日本人のDNAというか気質と相性が良いからだろうと推測する。野球の中にある「何か」と日本人の中にある「何か」がフラクタルな関係にあるのだろうけど、その部分はどこにあるのだろうか。

 今はちょっと違うが、21世紀に入る前までは、それこそ日本人は世界から見たらサッカーという協議においては「ヘタクソ」の部類にいた。ワールドカップに出場できたのは1998年が初めてで、予選を通過して決勝トーナメントにまで進めたのは2002年の自国開催時と、2010年の南アフリカ大会しかない。それに比べ野球に力を入れている国の数は、サッカーに比べて圧倒的に少ないとは言え、日本は野球の世界大会WBCでは世界一にもなっているし、常にトップクラスの成績を収めている。この違いは一体何なのだろうか。そして、アメリカ人もサッカーは最近結構強いけど、どちらかというとアメリカ人と言えばサッカーよりもベースボールだろう。

 そう考えると、日本とアメリカは野球・ベースボールであって、西洋の国々はサッカーを好む。この性質はなんだったのだろう。日本のサッカーのレベルは世界に追いついたようにも見えるが、イチローのような世界の頂点に立てるようなレベルのスーパースターは日本のサッカー選手にはいない。やっぱり日本人は野球のような性質のものに向いている気がしてならない。

 それこそ「フラクタル」という事を考えれば、野球のバットと、侍が手にしていた日本刀。あそこにフラクタルな関係を見つけられるが、こじつけている感がしないでもない。だったら、ボールを投げるというこれは、過去の日本の歴史の中の何とフラクタルな関係にあるのだろうか。

 しかし、日本人にはサッカーボールをリフティングする曲芸的な「フリースタイル」になるとレベルの高い選手が多かったりする。これは日本の蹴鞠とフリースタイルがフラクタルな関係にあるからなのだろうか。そうすると、「球を投げる」という何かと、日本の過去の歴史においてフラクタルな関係にある何かがあると考えた方が妥当な気がする。合戦の時に石でも投げていたのか、それとも何か投げて鳥にでも当てて捕まえていたのか、モリを投げて魚を捕まえていたそれなのか、はたまた別の何かなのか。

 いきなり唐突に「過去の歴史・伝統的な何かとのフラクタル要素のある者は日本人は強い説」を掲げてみたが、なんかそういうのってあるんじゃないかって気がしてきた。これはちょっと気持ち悪い話なのだが、胡散臭い「こいつ大丈夫か」と思わせるような自称スピリチュアリスト・霊能力者が「なぜイチローはあんなに凄いのか?」みたいな事に対して大体こんなことを言ってくるのだ。それはどういう屁理屈かというと、「イチローの過去世はそういうものを投げたり走ったりする仕事をしていて、それが引き継がれているから今の時代野球選手になって偉業を成し遂げているのだ。」というような根も葉も根拠も論拠も何もない理屈なのだが、「過去世」がどうとかは眉唾以下のトンデモ話だとしても、「日本人のDNAとしてのフラクタル現象」としては、西洋の歴史・伝統的な要素の強いスポーツよりも、日本の歴史・伝統的な要素とフラクタル要素を感じるような所作を要求されるスポーツの方が、日本人は強さを発揮しているのではないだろうかというこの推測は、それほど的外れの予想ではない気がするのは私の思い込みなのだろうか。

 だが、これだけでは説得力に欠けるのは承知の上で論述してしまったので、何かしらもう少し「あ、もしかしたらそういうのってあるかも。」というような何かを見つけたいなと思うのだが、逆に今立てた仮説に対して反論をしようと思えば、いくらでも反論出来る気がしないでもない。例えばスキーのジャンプが異常に日本が強い時があったが、あれは過去の日本の歴史の何とフラクタルな関係にあったというのだろうか。それこそ特攻隊とフラクタルな関係にあったとでもいうのだろうか。

 日本は体操競技も強い。これは一体何とフラクタルな関係にあったのだろうか。明らかに日本が歴史上どの年代でも大した成績を残せていないスポーツと言えばバスケットボールだが、日本人の遺伝上の「そんなに背の高い人いない」という部分以外にも、あのようなスポーツとフラクタルな関係にある所作がなかったのだろうか。

 フィギアスケートに関しては、いつの間にか日本は男女共に強豪国になっているが、どちらかというとあのスポーツはもっと昔から日本が強豪国になっていても良い気がする。あの競技は以前から日本の伝統芸能的な要素とフラクタルな関係があるように見えたからだ。

 と、少しこじつけ気味に、日本人性とスポーツの何か面白い関係が見つけられればと思い考えてみたが、今の時代で考えれば、テニス選手にも日本人ですごい選手はいるし、サッカー選手にしてもそれなりに世界で活躍している選手はいるし、大体の競技で何人かは世界のトップで戦っている日本人はいるので、「日本だからと言ってこのスポーツに特化している」というよりも、「人間」としてのアスリート的なポテンシャルをどう発揮できるかを知っている者が日本人だとか西洋人だとかに関係なくスポーツの世界では、「人間」という部分での優劣の方が強く関係しているのだろう。

 スポーツの中で、漫画・アニメ・コンピューターゲームのように「圧倒的に日本人とんでもなくセンス高すぎ」というような競技もないし、選手もいない。いるとしたらイチローなのだが、それこそイチローが「大和魂」を日本のアスリートの中でひとり発動させているかどうかの研究をしないといけなくなるが、「イチローだけ」というのはちょっと不思議な話になるし、そこまでイチローが一般人離れしていた生活をしていたとも思えないので、大和魂とスポーツに関係しているところを見つけることはなかなか難しい。前項の漫画・アニメ・コンピューターゲームで考えれば、日本人は「妄想力」がとんでもないという仮説が立つので、「スポーツと妄想力はそれほど関係ない」と言えるのかもしれない。それこそ、誰かがイチローに「イチローさん、あなたとんでもない妄想大好き人間ですか?」とインタビューして、「はい、僕は子どもの頃から三度の飯よりもぶっちゃけてしまうと、野球よりも妄想する事が好きでして・・・」とかい出してくるのであれば、もう大和魂の正体は「妄想力」って事でも良い気がするのだが、おそらくイチローはそんなに妄想大好き人間ではない気がする。

 ただし、スポーツというものは「自分のイメージした通りに体を動かすことが出来るか」という問題に対して、それを身体的なパフォーマンスで実際にその通りに応えることができるかどうかという「想像」と「運動」の連動であり対話であると見ても良いので、イチローの逸話で良く掲載されているような情報から考えてみると、「ルーティン」であり「反復練習」というものは、「想像」という自分の内なる世界と「運動」という自分の外なる世界をつなぐ架け橋のような何かを架ける所作なのかもしれないという仮説は出てくると言えば出てくる。しかし、そこに「大和魂」という言葉を彷彿させてくれるような何かは匂いすら感じ取れない。

 これまでは、スポーツという競技であったり、スポーツを行う選手にフォーカスして考察してみたが、観客というかファンというかサポーターというか「スポーツを観る者」「スポーツを応援する者」側に、日本人特有の何かがないかを考えてみたい。

6:もう1つのオタク文化である「コンピューターゲーム」の考察

6:もう1つのオタク文化である「コンピューターゲーム」の考察

 

 漫画・アニメに負けず劣らず、madeinJapanのコンピューターゲームも世界から賞賛され、2016年のリオデジャネイロオリンピックの閉会式で、マリオが登場したら世界中の観客達が大興奮するという具合なのだから、コンピューターゲームの領域においても日本の圧倒的な強さは揺るがない。やっぱり、「キャラクターの創作能力」においては、日本人は、世界と比較して圧倒的にセンスが高いのは間違いない。

 何故、漫画・アニメ・コンピューターゲームの創作能力が高いのかについては、やはり日本人は、頭の中でぐるぐるいろいろと想像して楽しむ事を伝統的にやり続けている事が原因だと考えた方が無難だろう。そして、西洋人達はそういう遊び方というか、楽しみ方を伝統的に持っていないため、そもそもそういう遊びをすることに不慣れなのだろう。

 極端な話をしてしまえば、西洋的な宗教間の中では、それこそ日本の漫画・アニメ・コンピューターゲームの類は「禁止している内容」なのではないだろうか。麻薬の類に似ている。しかし、世界はそれらの甘い蜜を吸ってしまい、教師達が隠し続けてきた、禁じ続けてきたそれらの味を知ってしまったのではないだろうか。それこそ、戦後我々日本人がいろいろと禁じられ、その反対に3S政策的に与えられた「日本人を骨抜きにするためのおもちゃ」を日本人達は与えられて骨抜きにされたかと思えば、日本人的な「迎合的融合力」を駆使して、今度は日本発の漫画・アニメ・コンピューターゲームを世の中に出して、世界を骨抜きにしようとしたかどうかは分からないが、それらを知ってしまった外国人達の中に、漫画・アニメ・コンピューターゲームの虜になって骨抜きにされてしまった人間達も相当数いるのだから、日本のお家芸合気道」的な「相手の力を利用して、さらに自分の力を加えてお返しする」という伝統的なやり口で、それこそ、核が危険だとかどうだかいうダイレクトな反撃方法ではなく、相手が仕掛けてきた事を加工し進化してお返しして悪気がないのに、浸蝕するという見方によっては、とんでもなく悪い集団が我々日本人なのかもしれない。そういう意味合いにおいては世界から見て、日本であり日本人という民族は危険極まりない連中ということも出来る。西洋の常識がまったく通じない非常識集団なのだから。

 実際、「日本の常識は世界の非常識」「世界の常識は日本の非常識」というような事を言われることがあるが、これは良くも悪くもであって、決して日本の常識を世界の非常識に迎合させていく必要もない。もちろん、今の時代日本が他の国と交流せずにやっていくことなど無理なのだから、世界の常識をしっかり学んだうえで、日本の強みを出して行く必要がある。常に「敵を知り己を知れば百戦しても危うからず」の意識は持ち続けるべきだろう。

 とはいえ、なんというか日本の合気道的センスは、西洋人達は真似したくても真似できないもののように見える。日本人が英会話を勉強する以上に難易度が高そうに見える。領土の狭い島国であるという性質から、海外から資源を輸入して、加工して新しものをつくって輸出するというここについては、良くも悪くもどうしようもない部分なので、やはり日本人は合気道的な民族なのだろう。海外のものを輸入して、日本人的合気道的加工力によって、日本人のセンスでしかなかなかつくれないものを創り、それらを海外に輸出して世界を驚かせれば日本はまだまだ沈む危険性はないように見える。「労働力」として日本人よりも東南アジアの人達を雇った方がコストは削減できるだろうけど、この日本人特有の「合気道的加工力」を日本人以外の国の人達は持ち合わせていないのだから、そこについてはコストを下げてよその国の人達を雇ったところで、問題を解決させることは出来ない。そう考えれば、日本人に対してどういう教育をして、日本人達はどういう大人として生きていけば時代がどう進もうとも生き残っていけるのか、有利なポジションに立てるのかは自ずと見えてくるのではないだろうか。

 とにかく、日本人は妄想力を鍛え上げ、それを「自分の内側の世界」から「自分の外側の世界」へとひねり出すことが出来れば、日本人らしくたのしい遊びだか仕事高分からないライフスタイルを堪能することができる民族なのだと推測する。それを「遊びは遊び」「仕事は仕事」と西洋医学のような発想で区切ってしまうことによって、日本人の本来の生命力は削られて、どんどん弱まっていく事だろう。

 それこそ、私が小学生時代、結構子どもにとっては大金を払って購入していたコンピューターゲームのクオリティなど、今の時代であれば、小学生自身がその程度のクオリティのゲームだったら自分で作りだすことが出来る時代になっているのだから、子ども達にゲームを作る授業などをしても良いかもしれない。「ゲームを作る」「遊びをつくる」という創作活動をもっと日本は教育として取り入れた方が良い。もちろん昔はそんな事を学校がしなかったところで、我々は勝手に遊びやゲームを作ってはみんなで楽しんだ。ここについては時代が進んでしまい、要領が当時とは違ってきたのだから、少し時代に合わせたデザインをすべきだろう。「外遊びしない日本人の子ども」の解決策として、「ポケモンGo」を提案するという事は、結果はどうあれひとつのチャレンジだったようにも見える。あのゲームを「コンピューターゲームと外遊びの融合」と考えて創ったゲームであるかは分からないが、ひとつの新しいチャレンジとしては良かったようにも見える。何事もやってみない限りは、それがどれだけ世の中にインパクトを与えられるかも分からないのだから。

 また、漫画・アニメ・コンピューターゲームにおける共通点としては、「自分ではないけど、キャラクターに自分を投影できる」という部分がある。もちろん、これは映画やドラマにも共通して言える事ではあるが、映画やドラマは何か生々しすぎて、ちょっと遊びの要素としては物足りないというか、リアルな世界の中で陶酔したところでやはりあまり面白みを感じないのだろう。非現実的であり、この世とは違うもう一つの世界で、自分に代わってキャラクターたちが大冒険をしてくれるのは、ある一つの乗り物に乗ってそういった非現実的な世界を冒険できるという、現実世界では体験することが出来ない体験をする場としてそれらが提供されているのだろう。それだからそのゲームだけをやった者たちだけにしか分かち合えない何かがあるのだろう。これはゲームの内側の世界においても外側の世界においても同じ原理がはたらいている。

 そういう「新しい体験を分かち合う場」づくりが日本人は上手い。西洋人達はそういう世界を創り上げる能力が非常に乏しい。無駄にリアルな世界でゲームをつくる事はもしかしたら日本人よりも上手い場合があるが、マリオだったり、ピカチューのようなキャラクター、そしてそれらが生きるための非現実的な世界観を創り出す能力に欠けている。しつこくなるが、この理由は1章で考察・論述してきた言語構造や宗教間の違いからきているものだと考えている。

 ここについては賛否両論が激しい部分かもしれないが、「日本人は論理的ではない」と言われる事がある。もしもこの説が正しいのであれば、「論理的過ぎると、リアルとは違う非現実的な世界観であれ、キャラクターを創り出す能力に欠ける」という見方も出来なくはない。

 論理力を養う事は必要だし、重要だ。特に日本の中に引きこもらず世界を相手に生きる上では論力がない事は、戦場に出て秒速で殺されることを意味しているかもしれない。だとしても、もしも日本人の漫画・アニメ・コンピューターゲームで他国を圧倒するだけの「非現実世界の創作能力」を捨てることになるのであれば、私自身は少なくとも、世界レベルの論理力よりも、日本人のイカレた妄想力と心中したい。もちろん、日本人の妄想力と世界レベルで要求される論理力。この両者をしっかり備えて生きていけるかどうか。この問題を乗り越えた日本人が、世界をリードして行けるだけのリーダーシップ能力を持った日本人として、世界レベルでリーダーになる資格を持つのではなかろうかと考える。

5:「ドラゴンボールはなぜ、世界的に人気があるのだろうか」の考察

5:「ドラゴンボールはなぜ、世界的に人気があるのだろうか」の考察

 

 戦後の日本において、世界で賞賛を受けるのが漫画文化アニメ文化であり、その中でも頂点に君臨しているのが「ドラゴンボール」なのではないだろうか。もちろんその他の日本の漫画やアニメも世界からの評価は高い。他の国の追随を許さないのは、この漫画・アニメのレベルなのではないだろうか。かと言って、日本の映画が、日本の漫画・アニメのように賞賛されているかというと、洋画のレベルと邦画のレベルでは、やはり洋画の方がズバ抜けてクオリティの高い作品が多い気がする。

 「漫画・アニメ」にしても「映画」にしても言ってみれば創作のお話であり世界観のものが多い。何が違うのかと言えば、「2D」か「3D」かという違いぐらいだろう。映画に関してはお話を誰かが作り、その作ったお話のキャラをまた別の人間が演じる。人間が演じる訳だから物理的な舞台やセットも必要になる。

 それに比べて「漫画・アニメ」はお話をつくる人間も、キャラクターをつくる人間も大体は同一人物で、ストーリーと世界観をすべて一人で創り上げることが出来る。キャスティングに誰を使おうと悩む必要もなければ、どの舞台で撮影しようかなど悩む必要もない。すべて自分の創造の世界で作ることが出来る。

 私は漫画・アニメ・映画のすべてにおいてプロでも専門家でも評論家ですらないので細かい事についてはよく分からないが、とにかく日本人は「2D世界の創作物」のレベルが抜群に高い。そしてすでに考察した「オタク」「マニア」に関しても、漫画・アニメに関しては「オタク」っぽいイメージがあり、映画に関しては「マニア」っぽいイメージがある。

 そこから導き出せるものは何かというと、「やはり、日本人は閉じている」ということだろうか。「1人遊びの天才」のような要素を持っているのかもしれない。その理由が島国であるとか、長年の鎖国体質だからとかそういう要素からきているのかどうかは知らない。ただ、非現実的な仮想世界を、仮想キャラクターを作り出す能力が何故か極めて高いのだ。その反対に、西洋人達はその能力に極めて乏しい気がする。

 個人的にはやはりその要因は「宗教の差」にあるような気がする。「神は人間を、自分に似せて創った」的な発想の一神教的思想の人間達には、日本人が創り出すような世界観であり、キャラクターというのは創り出すことが非常に困難であり、あれらの信じる宗教の世界観からすると、ほぼ無理なのではないだろうか。

 そして、日本人達が何故、世界が驚くような「2D創作物」をつくる事が異常なまでに長けているのかは、日本の宗教観が多神教で、その八百万的な神さま達が一人一人というか一神一神というかは分からないが、個性的でストーリーがあるからではないだろうか。

 これは、個人的趣向にもよるのかもしれないが、初期のキャプテン翼は非常に私にとっても魅力的であったし、それこそサッカーのレベルの高い西洋人達からも愛された。そしてその作者は「サッカーをあまり知らなかった」ような気がする。何が言いたいのかというと、申し上げにくいのだが今の時代の大人になった翼君たちのキャプテン翼は面白くないのだ。個人的には「作者が本当のサッカーにかぶれてしまった。」つまり西洋人っぽい作りになってしまったからなのかもしれない。キャプテン翼は「現実的にそんなことできないだろ」っていうのと「だけどもしかしたらできるかもしれない」的な融合的要素が強くて面白かったのだが、キャプテン翼ジャイアントキリング的要素を少なくとも私は一切望んでいない。翼君は生きているし、生き物として成長しているけど、「キャプテン翼」という作品そのものは死んでいるか、もしくは瀕死寸前の危機に瀕している気がしてならない。

 それに比べて、個人的には絶好調のように見えるのがキン肉マンなのだが、キャラクターが本当に生きているんじゃなかろうかというぐらいに、ストーリーが進む。そしてゆでたまごワールドは、独自の宇宙原理であったり物理法則を披露し続ける為、昔からのファンも新しいキン肉マンのストーリーにそれほど違和感を持たずに楽しんでいる者が多いような気がする。そこにはもうブッ飛んだ人間離れした世界観が引き続き継続されているからだと推測する。

 さて、漫画・アニメの王様と言っても過言も異論も無さそうな「ドラゴンボール」についてだが、商況的な匂いは感じつつも、やはり「続編がどうしても見たい」と熱望が強いのは我々読者・視聴者側の方なのだろう。世界中で続編を熱望している感がハンパない。そして、元からあの世界観なので、「神さまの世界」だとか「十二個ある宇宙」とかとんでもないことになってきている。極めて、パターンもそれほどいろいろある訳ではなく、どちらかというとワンパターンなのだが、それこそ「2D版水戸黄門」のような感じで、皆が孫悟空達を応援してしまうという不思議な漫画・アニメだったりする。

 この日本の漫画・アニメを世界に普及するというこの流れは、そんな狙いがなかったとしても少し、戦国時代当時のフランシスコザビエルやルイスフロイス達宣教師たちの布教活動に形が多少フラクタルな要素を感じてしまうのは私だけだろうか。日本の漫画・アニメの影響によって「日本に一度行ってみたい」と外国人達に思わせ、実際に足を運んだ外国人達は今となっては相当数いるのではないだろうか。

 もちろん漫画・アニメは宗教ではないが、madeinJapanのものがここまで外国人達の心に入り込んだものは漫画・アニメがその他の日本の魅力的なモノであれ者の中で、ズバ抜けて強烈なインパクトを与えているのではないだろうか。そしてドラゴンボールは、「神さま」の世界観が出てきているので、変な言い方になってしまうがある種の新興宗教のようにも見えてしまう。この形は非常に新しいとしか言いようがない。私自身も無宗教をうたっているが、ある意味「ドラゴンボール教」の信者と言ってもそれほど間違っていない部分があったりする。

 そして、ドラゴンボールの世界観はブッ飛んでいるようで、何気に世界の真理的なものを捉えていたりする可能性が高かったりする。もしも、お釈迦さまが「自分の内側の世界」の事を、鳥山明先生ばりのセンスで弟子たちに伝えられていたら、もっとこの世界も人間達も変わっていた可能性は高いだろう。やはり、「何にもない。だけどこんなにある。」って事を淡々と淡白に語られたところで、時代が経てば経つほど人々はそれほど興味を持たなくなるし、少なくとも子ども達にはまったく響かない。だけど、「ドラゴンボール」は我々四十のオッサンにも、今の時代の子ども達にもビシビシ響かせているし、それは日本人だとか西洋人だとかの線もとっぱらってしまっている。

 実際、日本復興モードという応急処置的鉄仮面を被り続けてしまうという間違った融合を見せてしまったのが「日本のサラリーマン文化」であり、日本の復興モードを終え、復興後にしっかりと「日本人らしさ」と近代的要素を融合させて「今の時代の日本」を上手に表現することが出来たのが、日本の漫画・アニメ文化であり、その代表作がドラゴンボールなのではないだろうか。

 もし、この仮説が正しいのであれば、日本の教育方針は大きく転換する必要がある。もちろん「鉄仮面」を狂信している者達が今現在国をコントロールし、国民をコントロールしているのだろうから、過剰な期待をしても変わる事は無いだろうが、この仮説からして、少なくとも日本の過程の中での教育においては「2D教育」というか「想像力の養成」「妄想力の養成」というものに熱を入れるべきであって、学校が終わったらさらに学習塾に通わせて優秀なサラリーマンを養成するためにいろいろと人的な資源を費やしていくのは、それこそ「消耗」の一途を辿ることになるだろう。気づいた人間から、その「死の行進」的、非日本人的な教育を手放し、断捨離し、日本人の本来性を伸ばす事ができる「2D教育」をとにかく幼少期であればあれほど熱心に力を注ぐことをおススメしたい。そうすれば、結果的に日本であり、日本人は、世界からもっと賞賛を受ける事になるし、日本人達自身がもっと幸せそうな顔をして生きてる人間達をそれこそ量産する結果へと繋がると私は確信している。

 常識にとらわれずに「日本の何が世界から賞賛を受けているのか」を観察すれば、日本の教育をどうデザインし直せば、良いのかぐらいは別に頭の良し悪しとは関係なしに分かるのではないだろうか。もしも、国のお上が分かっていてそれをしないのであれば、もはや我々日本人は、日本人から毒の水に漬けられていることになる。正直、早いうちから「国に頼らず、極力自分たちでできることは自分たちでやる」という気持ちで生きていないと、取り返しのつかないことになる危険性は時代が進めば進むほど高くなっていく事だろう。情報に踊らされることなく、情報を冷静に観察して、自分が最大限に発揮されるような戦略をとることが要求されていて、その中に「大和魂の発現」という部分は切っても切れない重要な要素だと私は考える。

4:ジャパニーズヒップホップは、新しい日本を創生することができるか

4:ジャパニーズヒップホップは、新しい日本を創生することができるか

 

 今、日本の若者たちは日本の演歌を聴くだろうか。今、日本の盆踊りをするだろうか。しない訳ではないだろうが、やはりそれらは若者たちがすき好む音楽であれ、ダンスではない事はたしかだ。では、若者達は何に興じるのか。そのひとつが「ジャパニーズヒップホップ」なのだが、何故これが「ヒップホップ」ではないのかと言えば、やはり日本人が輸入して加工すると、良くも悪くも「日本らしく」なってしまう。そこに、何かしらの「大和魂」を見つめることが出来ないだろうかと考えてみたい。

 まず「ヒップホップ」ときいて、ダンスであれ、ラップであれ、音楽であれを想像すると思うのだが、「ヒップホップ」とは文化だ。「室町文化」みたいなものと同義と考えてよいだろう。文化とは人が作り出す世界観だ。日本の若者たちが創り上げた文化としてはこの「ジャパニーズヒップホップ」と「オタク文化」などがあるだろう。

 しかし、「オタク文化」には少々世の中に対してのメッセージというか主張を感じることが出来ない。そういえば、政治家の麻生太郎氏はやたらと、オタク達から人気と支持を得ていたようだが、かと言ってもオタク達は何か世界にメッセージを発信しているとは思えない。ここで言うメッセージというのは、「こういう世界って最高だぜ」というような発信の事だ。もちろんなくはないのだが、日本人が一般的にイメージする「オタク文化」が日本のスタンダード的な表舞台に持ち上がってくることは、現時点ではちょっと想像できない。

 それに比べて「ジャパニーズヒップホップ」は世の中の表舞台に出つつある。私は、その理由は「ジャパニーズヒップホップにはあるメッセージであれ主張がある」からだと推測する。「俺たちの世界観はこれだっ!」「俺たちの世界の色に世の中も染めてやるぜ!」という主張を個人的には感じるし、世の中もそれを積極的に受け入れようとしている流れがある。やはり、テレビのCMにヒップホップ音楽であれ、ラッパー達が登場する事が多くなったことを考えれば、日本の文化に「ジャパニーズヒップホップ」が浸透しつつあるという事実が窺える。

 また1つの例として日本には、「甲子園文化」というものが存在するようにも見える。あるジャンルについて、高校生たちが日本一を競い合う大会が人々を魅了するという文化なのだが、ダンスにおいても、ラップにおいてもある種の「甲子園文化」によって人気に火が付いた節がある。

 そして、ヒップホップは文化ではあるが、やはりダンスは踊りであり世の中に対して何かを主張するというよりも、どちらかというと芸術活動のようなものなので、「自分たちはこういう世界観を創り上げている」という事についてはそれほど強烈な主張を感じない。それに比べて世の中に強烈な主張を提示したのが「ラップ」なのだろう。

 ラップそのものがやはり「強烈なメッセージ」をどう言葉としてリズムに乗せて韻を踏みながら吐き出すかという非常に知的かつ芸術的な創作活動になっていて、それだけでなく哲学的な要素も要求される。アメリカでも、モハメドアリのインタビューなどがラップ人気に火をつけた理由は、ただ単にそのメッセージがリズミカルで、韻が踏まれるユニークさがあっただけでなく、「そのメッセージ性の強さ」であり哲学的要素が含まれていた事が大きいような気がしてならない。

 これをヒップホップが流行る前に、似たようなものを見つけることが出来るかというと、芸術的な要素を考慮しなければ、ヒットラーの演説はラップっぽい要素を感じる。何かをDisり同時に自分の思想を主張するというある種のヒットエンドラン的所作。本来は、こういった世の中に対するDisりであり、主張は少なくとも日本においては、政治家位しか行わず、そして過激すぎればひっ捕らえられたりもするので、やはり公でそのような思想を主張する者は少なく、政治家以外で考えてみれば、〇〇評論家、一般人であればお決まりの「サラリーマンが居酒屋で酒飲みながら政治批判」という何かあまり世の中を変えてくれなさそうな、それこそ日本人のこれまた悪臭である「井戸端会議文化」の線上にあるような情けない感じの内にこもった主張文化があるように見えるが、ラップという存在は、その引きこもり的主張から、公の中での主張に進化したように見えるのだ。

 これは見方を変えれば、携帯電話は昔限られたビジネスマンしか持っていなかったアイテムが一般人に普及されたのと同じで、一部の政治家しかしていなかったなんらかの思想の主張を、中高生でも出来るようになったというある種の「ツールの普及」と見ることも出来る。

 以前、伊藤博文たちが「日本は幼稚で巨額」と自分たちをDisった理由はどこにあったのか?それは科学的レベルが『西洋』と比べて著しく低かったことを指示しているように見える。しかし、私個人の主張としては科学的レベルの差なのではなく、「思想を主張するレベル」が、日本人は西洋と比べて差があるのではないだろうかと思うのだ。そのコンテクストで考えれば、明治時代であれ、戦後であれ、日本人が世界から見て大人になれたのかどうかと言えば、残念ながら幼稚園児のままだったのかもしれない。もちろん科学的なレベルは明治時代のソレと比べたら物凄い飛躍を遂げたことだろう。しかし、「思想を主張する力」においては、さらに戦争に負けて牙を抜かれ、酒でも飲まないと自分の思っている事を主張することも出来ない。そして、せいぜい主張の場は居酒屋で会社の仲間達とダンゴムシのようにくるまってあーだこーだと大した議論レベルにも達していない話をしては虚しく盛り上がるだけだったのだから。

 その負け犬日本の自虐史観的呪い、そして思想を主張する事においての幼児的レベルを払拭する特効薬がジャパニーズヒップホップであり、ラップであるように見えるのだ。日本は選挙権が十八歳へ年齢が下がったが、その前から選挙の模擬授業など若者たちに政治に関心を持たせるような何かしらのチャレンジは実践されてきたとは思うが、投票率を見る限り、それほどの成果は出ていない気がする。私はここに「ジャパニーズヒップホップ」の文化を取り入れるべきだと主張したい。

 「ヒップホップ」というとやはりあまりよろしくない印象も我々に提供してくれるのだが、やはり拳銃社会のアメリカと、そもそも拳銃なんて持ってたら即逮捕される国日本とは同じ「ヒップホップ」という種を蒔いても咲く花が違うし、成る実も違う。それは「みかんとオレンジの違い」のようなもので、アメリカのサンキストオレンジ的な果物を「みかん」と訳してもおかしくはないだろうし、愛媛みかん的なあの果物を「オレンジ」と訳してもバツをつけられることはないかもしれないが、その両者がまったく同じ物と言われたらやっぱり違和感を感じずにはいられない。アメリカのヒップホップはやはり「オレンジ」であって、ジャパニーズヒップホップは「みかん」なのだ。そう考えると、ヒップホップに多少の「悪さ」的要素が含まれていたとしても、アメリカの「悪さ」とは質そのものが違う。そもそも日本のヒップホップの世界で拳銃で撃たれて死んだ人間などまずいない。「ギャング文化」と「ヒップホップ」は重なる部分は多少なりともあったとしても、それがぴったり重なっている訳ではない。そしてジャパニーズヒップホップが健全な方向へ進んでいる一つの表れとして「甲子園文化」がラップと融合して、中高生が別に不良でなくとも健全にラップをしているまた日本独自の新しい何かを作り出しているようにも見えるのだ。

 アメリカのヒップホップ事情にそれ程詳しくないので、それほどの比較をすることは出来ないが、日本人のラッパー達の中には「不良」というよりも「オタク」に見えるような風貌の者も普通に登場しているし、特に「ラップは不良の特権」というような縛りはそれほど見えない。やはり「年齢関係なく自分の腹の中にあるものをいつでもどこでも主張できるツール」としてラップは、携帯電話以上の画期的な発明のように見えるのだ。

 実際に、名言であったり、メッセージ性の強い発現にはラップの要素は普通に含まれている。小泉純一郎がなぜ、国民の心をつかんだのかは彼がある種のラッパーだったからだろう。「郵政民営化、賛成か、反対か。」狙ったのか天然なのかは分からないが、あきらかにリズミカルで韻も踏まれている。貴乃花が優勝して日本人ならば誰でも知っているあの名場面「痛みに耐えて、よく頑張った。感動した!」というこの小泉純一郎の言葉も、ラップにおける強烈なパンチラインの込められた言葉であって、優勝した貴乃花以上に小泉純一郎の方が目立ってしまっている。そして小泉純一郎と言えば「自民党をブッ壊す!」だが、まさにラップそのものである事は説明不要だろう。ただし、自民党よりもあの約10年間の間に、日本がぶっ壊れた気もしないでもないが、それこそ、痛みに耐えながら日本は今、改革されたのかどうかは意見が大きく分かれるとは思うが、言ってる事とやってる事があべこべにだけはならない事を、個人的な心証を受けてしまう訳で、不満があれば溜め込めずに、それこそ韻でもはめ込めてラップで主張してみたら良いのかもしれないが。

 『民主化』という意味合いにおいては、ようやくこのラップというツールが国民にいきわたる事によって完成形へと大きく近づく気がしてならない。選挙という制度によって「国民が政治に参加している」などというのは、大間違いというかそれこそ何かをすり替えて見せているような子供だましの手品みたいなようなもので、もっと国民ひとりひとりが自分の腹の中にある「日本をこういう国にしたい」という想いをもっと主張すれば良い。

 その為には、ひとりひとりがラップする力を鍛え上げていけば、自ずと日本の国民レベルは上がり、もちろん国としてのレベルも上がる。そこんところ有能な政治家先生諸君you know? というラップに対して、「I got it」とアンサーしてくれれば、それこそ国際的なすごろくゲームに対しても一気にサイコロで6のゾロ目でも出て、アガリに近づき、諸処の問題も解決することだろう。

3:オタクイズビューティフルは、ジャパンアズナンバーワンの要因となりえるのか

3:オタクイズビューティフルは、ジャパンアズナンバーワンの要因となりえるのか

 

 「日本人性とはオタク性である」という仮説を1章の中でしたのだが、本当にそうなのだろうかとこの項では敢えて疑ってみたい。さて、「オタク」とはどういう意味なのかとりあえず辞書を引いてみるとこのような意味合いになっている。

[オタク]

おたく(オタク、ヲタク)とは、1970年代に日本で誕生した呼称であり大衆文化の愛好者を指す。元来は漫画・アニメ・アイドル・SF・特撮・パソコン・コンピュータゲーム・クイズ・模型・鉄道・格闘技などの、なかでも嗜好性の強い趣味や玩具、の愛好者の一部が二人称として「お宅」と呼び合っていたことを揶揄する意味から派生した術語で、バブル景気期に一般的に知られはじめた。その頃は「お宅族」、「オタッキー」、「オタッカー」と呼ばれた。明確な定義があるわけではなく、現在はより広い領域のファンを包括しており、その実態は一様ではない。

 

 面白い事に、大体の言葉はどの辞書で調べてもほとんど同じ意味で説明されているのにこの「オタク」に関しては御託を並べるかのように、結構個性のある説明がそれぞれの辞書に入っていたりする。中には、


社会的にその価値が理解されがたいサブカルチャーや趣味に嗜好をもち,その細部にこだわり,自分の世界に閉じこもって没頭する傾向が強い。

 

 となっていたり、

 

特定の分野・物事にしか関心がなく、その事には異常なほどくわしいが、社会的な常識には欠ける人。

 

 と書かれいたりもする。最後の「社会的な常識には欠ける人」という定義は面白い。わからない事はないのだが、特定の分野・物事にしか関心がなく、そのことには以上に詳しく、社会的な常識も持っている人というのは「オタク」と定義されないという事になる。それともオタクというのは「特定の分野・物事」にしか興味がないので、必然的に「社会的な常識に欠ける」ということになるのだろうか。そもそもここでいうところの「社会的な常識」とは何を指しているのかもよく分からない。

 とりあえず、「オタク」という意味合いにはリスペクトの要素は含まれつつも、Disりの要素も含まれているのは理解できた。「何かに非常に突出している代わりに、何かが非常に突出して欠落している」というような具合だ。かと言って、物凄い運動神経が良くて例えばサッカーでは世界トップクラスの実力を誇るのに、社会常識が欠落して稲人間の事を「オタク」とは呼ばないような気がする。そこにはこれまた一般的に「あまりそのジャンルの事が詳しかろうが、実力が高かろうがなんだかちょっと気持ち悪い」という要素を含むものでないと、「オタク」とは呼ばれない印象をもつ。例えば「アイドルオタク」「アニメオタク」「ゲームオタク」というように、何か社会的にはそれを追いかけて極めたところでそれほど評価されないようなものを追いかける者たちを「オタク」と呼ぶような気がするが、ここについても時代が進めば価値観が変わるので、今の時代の「オタク」と、当時の「おたく」とでは大分意味合いが違うという事を主張している者もいるぐらいだ。

 私自身、日本人の本来備え持っている日本人性の中に「オタク性がある」という仮説を立てたが、この「オタク」という言葉と対話している内に、似ている概念という言葉に出会う。それは『マニア』という言葉なのだが、「オタク」と「マニア」とは何が違うのだろうか。「マニア」についても辞書を引いてみると、

 

[マニア]

特定の分野・物事を好み,関連品または関連情報の収集を積極的に行う人。 「鉄道-」 「切手-」 → おたく(御宅)

 

 結局ほぼ同じ意味合いのようだが、私が先ほど疑問に思った「一般社会常識」を持っているソレを「マニア」と定義するというような意見もあるようだが、特にそう定義されている節もない。印象としては「オタク」は「マニア」以上にある特定のソレにハマリ込み過ぎて、ソレの話以外はほぼできず、コミュニケーションもろくに取れないような印象を与えているようだ。そして、マニアとはmaniaであり、どうやらこの言葉はギリシア語で「狂気」という意味らしいが、「オタク」はギリシア語でもなければラテン語でもなく、日本語から来ている言葉だ。この両者を比べれば行儀のよいイメージを持っているのは「マニア」であり、凶器を持ち出そうなイメージを与えているのは「オタク」なのかもしれない。正気でもない方も「オタク」なのかもしれない。

 「オタク性」というものは本当にこの犯罪的な変態性を伴うものなのだろうか。もしもそうであるならば、私が1章で述べた仮説の中の「日本人の本来性は「オタク」にある」という主張は取り下げたくなってくる。私は決して「日本人の本来性は変態的趣向を持つコミュニケーション能力のない引きこもりである」などという事を言いたかったわけではない。どちらかというと、日本人のイメージは国旗のイメージと同じで、丸なのだ。つまりそれは「何とでも融合できる」というイメージなのだ。良くも悪くも角がないイメージなのだが、もしも「オタク」が、ここまで性犯罪的なイメージを匂わすのであれば、そしてコミュニケーション能力が著しく低いという条件がついてしまうのであれば、ちょっと「オタク性」が「大和魂に含まれる要素」と考えるのは難しくなってきたのだが、それでも「オタク」という言葉は純日本産であり、なんらかの日本人性がそこに表れている気がしてならない。そうでなければ、「オタク」の事を外国人達が「OTAKU」とは言わず、自国の言葉に当てはめるはずだ。

 だがしかし、調べてみると英語でも「オタク」「マニア」と似ているような関係の言葉を発見した。その言葉が、「ギーク」と「ナード」という言葉だ。「オタク=ナード」「マニア=ギーク」というような関係にあるようにも見える。それどもなんとなく「オタク」というこの言葉には日本人しか持てないような日本人の特異性が含まれているような気がしてならないのだ。私が、抽出したいのはその「オタク」の中に含まれている「日本人ならではの要素」なのだ。

 ちなみに、私は「大和魂」を研究しているくせに、非常にヒップホップ文化を愛している人間でもある。若者と言われていた時代は、ヒップホップのダンスにハマリ、中年と呼ばれる今現在、ラップにハマリまくっている。しかし、ダンスにしてもラップにしても特に優秀なダンサー、ラッパーは、私は良い意味合いにおいての「オタク性」が含まれているような気がしてならないのだ。そして、彼ら彼女らには、「そのことに非常に没頭している」という事は見られるが、何か嫌悪感を与えるような要素は見当たらず、それこそDanceにおいては本場アメリカ以上に強烈なパフォーマンスを披露して世界を魅了させている事実もあるし、ラッパーにしてもいかつい感じのいかにもアメリカンスタイル的な不良ではなく、何かちょっと「オタク」っぽさを感じるラッパーが非常に素晴らしいパフォーマンスを発揮しているのをよく見かけるのだ。

 「オタク」であれ「マニア」であれ「〇〇狂」というようなイメージも受けるが、どちらかというとそれは狂っているというよりも、『深く潜り込んでいる』印象をこちらは感じるのだ。そして私が「オタク性の中に日本人らしさが内在しているような気がしてならない」と思わせる部分は、その『深く潜り込んでいる』というその部分なのだ。なんというか、職人がモノ作りにおいて、外の外的世界を感じずに、そのものにズバリ没頭して集中している状態。「自分の世界に入り込む」という表現も出来るが、それが独りよがりではなく、言ってみれば「神の世界との同化している状態」というか、融合している状態というか。

 神の世界というのはまさに「オリジナル」の事であり、もしも『西洋』で言うところの「神は人を自分に似せてお創りなさった」的な発想が正しかろうと、それは「神と全く同じ」ではなく、「似せて創った」だけに過ぎない。言ってみれば、どこかの国で売ってそうなブランド品のバッタモンみたいな関係が、「神と人間」にあるようなものなのだが、日本人的発想は「人もそこらへんの石も木も神さまが作ったもの」というような発想なので、「神とのシンクロ」みたいな言ってみれば、スポーツの世界で言われるところの『ゾーン』の状態に入っているような状態。それは「神さま=創造主」と自分がぴったり重なり合っているような状態と表現するのがなんとなく私の立てた仮説の中で使った「オタク性」のことだ。そこに性的に偏った変態的要素は加味されない。

 日本には素晴らしい、日本らしくて世界からそれこそ「ビューティフル」と称賛されるモノたちが数多く存在する。それらはまさにこの「神さまとぴったり重なった状態」で創られるモノたちのような気がしてならないのだ。それは、ドラゴンボールであれ、スーパーマリオであれ、同じ原理が働いているように見える。その過去も現在も働く、日本人の独自性が光る「ソレ」を「オタク性」と呼ばないのであれば何と呼ぶのか教えてもらいたい。私が「大和魂の重要な要素」と言いたいのはそこにある「神さまとぴったり重なるセンス」のようなものなのだ。

 たしかにそれは、やはり「神さまとぴったり重なる」ような状態なので、人から見れば人間離れて強いるのである種の「気持ち悪さ」を感じさせる可能性もあるのかもしれない。しかしそれは嫌悪的な「気持ち悪さ」ではなく、カタルシスを味わう程の機会を喚起させるだけの「気持ち悪さ」(非日常という意味合いでの)なのだと考える。その領域に入り込むには、相当の「入り込み」が要求される。そして、その「入り込み」の技術が、技術ではなく日本人はある種の先天的なセンスとして持ち合わせていると私は個人的に主張したいのだ。

 皮肉な事に、その「入り込み」のセンスが高すぎて招いた悲劇が、前項でも取り上げた「日本人はサラリーマンという鉄仮面が皮膚化して顔になってしまった現象」の事だ。これも言ってみれば、戦争に負けた日本が、いち早く復興しようとして立てた戦略「サラリーマン大作戦」に多くの人間達が「入り込み」過ぎてしまったため、驚異の回復力で復興を成し遂げたそこまでは良かったものの、応急処置モードで戦略上用いた「サラリーマン大作戦」のサラリーマンを極めすぎてしまい、復興をとっくに終えた今も、日本人は「サラリーマンオタク」としてその力を無駄に発揮しすぎてしまっているのではないだろうか。そこまでは良かったのだが、それこそ何故、社内では、上司と部下、そして取引先などと健康的なコミュニケーションをとることができないのだろうか。それこそ「オタク」の定義に書かれているような「コミュニケーション能力が乏しい」というような欠点を露呈させてしまっているのではないだろうか。個人的には、「指示待ち人間」であれ、「誰かに飼われて生きる生き方」そのものが、それこそ悪い意味合いにおけるオタク的要素を発揮してしまっているように見えてしまうのだ。

 なので戦後の日本人は、アメリカの飼い犬のような存在になってしまい、これまた皮肉な事に「飼い犬オタク」みたいなものまで身に着けてしまって、挙句の果てには「終身雇用」だの「年功序列」だのともうそれはそれは「依存オタク」みたいになってしまって、そこからひきこもりだの、ニートだのとさらに発展していって、という具合に進んだため、「オタク性」というものが、あまりよくない印象を与えているように思えるが、日本人が特別持っている良い意味合いにおける「オタク性」というのは、「神さま(創造主)とぴったり重なることができるセンス」の事を私は指している。やはり、それは深海に潜るような深みに「入り込む」事が必須であるように見えるので、見方によれば引きこもっているように見えるし、その「神さまとぴったり重なった状態」というのは、意識は俗的な世界ではなく、どこか別の世界にワープしているような状態になる。「没頭」というのはまさにそういう状態の事なのだろう。

 つまり、私が言うところの「オタク性」というのは、「没頭力」のことであり、その先天的かつこうてう的にも優秀な没頭力が存分に発揮されてつくられたものであり、モノ達はやはり、世界から「ビューティフル」であり、それらによって「ジャパンアズナンバーワン」と言わしめるだけのインパクトを魅せる事が出来ているのだから、「オタクイズビューティフル」と表現しても遜色ない気がするのだが、たしかに、その「入り込み」というセンスが、度が過ぎてしまったり、どこかしらに偏ってしまうと、やはりちょっとそれはあまり良くない意味合における「気持ち悪い」になってしまうが、またそれはそれで世界から見たら、へんてこだったり、奇妙でおもしろかったりするので、「オタクイズビューティフル」と言っても良いのかもしれない。

2:病める日本人の死への行進を止めるにはサラリーマンを辞める方針を決める

2:病める日本人の死への行進を止めるにはサラリーマンを辞める方針を決める

 

 最近、ブログのタイトルの流行りなのか「サラリーマン辞めた」的なブログを見かけることがある。これは、ある意味私が提唱している流れに人々が乗っているように見える。別にその人たちは私が提唱したからそういう生き方をしているのではなく、「こんなに辛いならもうそのレールから外れた方が楽じゃね?」ってことに気付いたのだろう。そして、冷静に世界を見てみれば、「サラリーマンじゃないと飯を食っていくことが出来ない。」などという世の中になっていないことに気づく。そう思っていたのは自分の思い込みで、幼少のころからかけつづけられた催眠術にかかり続けていただけに過ぎないのだ。

 その催眠術が解けたとしても、「いやいや、自分はサラリーマンというこの生き方が性に合っているのだ。」と思うのであれば、思う存分、毎朝起きて、いつもと同じ時間の電車に乗り、定時に会社に行って仕事をこなして、定時で帰宅する。的な生活を繰り返せばよいのだが、問題はその生き方が性に合ってもいないのに、「大人になったらそうやって生きていくしか方法はないのだ。」と思い込んでいる者たち。そういう人達にとって日本のサラリーマン文化はいろいろときつすぎる。それによって若いのに自ら命を絶つ者もいるが、やはり、なんとかその「日本社会ではサラリーマンとして生きる事しか選択肢がない」みたいな催眠キャンペーンから抜け出せるようにそこに関しては祈るしかないし、こうやって本でも書いて発信していくしかない。その内容に常識人共からバッシングを受けたところで別に気にはならない。

 そもそも、朝、駅のホームに立ってそこにいる人間達を見てみればいちいち言葉を尽くして説得するよりも火を見るよりも明らかに「サラリーマンたちがどれだけエネルギー低い」のかを誰でも確認することが出来る。元気はつらつオロナミンC的な元気そうな大人を見かけることは出来ない。それこそ、朝からキヨスクで、気安くファイト一発でもやってなんとかしてるモノも少なくないかもしれない。そして、そのまま彼ら彼女らと電車に乗ってみれば良い。そこにどれだけの「ストレス」が生じているか。朝の駅のホームから電車でギューギューのあの一連の流れは、まさにこの国におけるストレス発電所のようにしか思えない。

 さらに人ごみの中を会社に向かって歩き、最近で言えば歩きスマホでまわりなどまったく見ずに歩いている、それこそゲームの障害物のような者達の突進をかわしつつ、会社へ。会社に行けば、話の分からない上司、言っても分からないような部下達とのNAZOのとれてるんだかとれてないんだか分からないコミュニケーションをとりつつ仕事をこなす。こなしているのであれば良いが、変なおじさんが「なんだチミは?」と言われる以上の勢いで「何やってんだ」と説教なんか受けてみたりして、上下関係においては言い返したくても言い返すことも出来ず、自分の本音は飲み込んで、納得いかない効率の悪そうな仕事の仕方を強制されたりしながら、さらにストレスを溜める。

 そんなこんなで朝から晩までストレスを溜めるもんだから、ビールでも飲むか日本酒でも温めるかでもして酒を飲んで、その日のストレスを洗い流す錯覚でもしてみるが、酒などというものがストレスを洗い流すものではない事は、それこそ現代人であれば常識の一つなのだが、時代遅れの者は未だに「朝から夜までストレス溜め込んで、夜になったら酒を飲んでストレスを洗い流す」的な事をルーティンとして行っている。

 正直なところ、このルーティンは「負のルーティン」でしかない。なぜなら、酒を飲めば人体にどういう影響があるかなどというものは、それこそ科学的に実証されている訳であって、酒に「ストレスを洗い流す」などという効果はなく、「その人のストレスから逃避する」ぐらいの効果でしかないから、結局その洗い流されていないストレスは、心身へと蓄積される。例えば、酒を飲んで8時間寝た時と、酒を飲まずに8時間寝た時では疲れの取れ方が違う。そう考えるのであれば、その日に溜めたストレスを洗い流すのであれば、早い時間にゆっくり風呂にでも浸かり、寝てしまって、早起きしてジョギングでもした方がよっぽど健康を保てるだろう。

 それこそ、昨今の見た目重視で、添加物たっぷり的な食べ物を食べ続ければどうなるのかというのと同じで、その「体に悪いもの」は体内に入れば、もちろん我々の内臓たちは非常に優秀なので、ある程度はなんとかしてくれるが、摂り続ければ花粉症になるあの原理と同じで、コップから溢れればいろいろな症状として体が「もう勘弁してくれ」とばかりに、病気という形で我々にイエローカードを提示してくるだろう。

 「ストレス」というのもそれと同じで、ちゃんと考えないで「大丈夫だろう」と思ってみたり、例の「酒でなんとかしよう」みたいな事をすれば、どんどん蓄積されていく。もちろん食べ物と同じで、ストレスも溜まって自分のコップの許容量を超えれば、溢れだしてしまうのだから、何かしらの変調をきたすことになる。ちなみに「酒を飲めば何とかなる」というのはたしかに現象としてはそうなのだが、それはなんとかなっているのではなくて、「センサーがバカになっている」だけであって、いずれ気づいた時には取り返しのつかない位、身も心もダメージを負っている事に気づくだけなのだ。

 多少、酒Disリが激しくなってしまったが、一番良くないのは「ストレスを酒で何とかしよう」というこのルーティンなのだ。「楽しい時に酒を飲もう」という事であればそんなに危険ではないのかもしれないが、基本的に健康な人間は、そんなに酒を自分自身が要求してこない。デブが甘いものをやたらと要求して食べてぶくぶく太るのと同じで、必要がないのだ。

 「それが「大和魂」と何の関係があるのか?」と思うかもしれないが、ここで問題にしたいのは『ルーティンの危険性』なのだ。前著である『自分』を最大限に生かす人生戦略の中で、この事を「人類総鉄仮面計画」として論述したが、役を演じていた者が、そのままその役の人間に成り代わってしまって、もう元には戻れない状態になるのだ。もはや日本人は「サラリーマンという顔の鉄仮面」をそれが日本人の顔とばかりに思い込むというよりもそれを「当たり前」として生きてしまっている。

 前項でも述べたがその「サラリーマンという顔の鉄仮面」は、戦後における応急処置モードで活躍したお面であって、本来の日本人の顔そのものではないのだ。だけど、それほどの年月ではないのに被って復興のために頑張ってきた日本人達はそのお面が皮膚化してしまって「これこそが日本人」というまさに、役を演じていたら、役そのものになってしまった現象が起こってしまい、ここ数十年程度のお面を「自分たちの顔」と勘違いして、今もはや復興など終わったというのに未だに復興モードの有効アイテム「サラリーマンの顔のお面」を愛用し続けてしまっているのだ。むしろ、愛用というよりもそれは国民の義務レベルにおいて。

 正直なところ、そっちの方が上で国民をコントロールする立場の者にとっては扱いやすいのも事実だろう。だけど、それで良いのだろうか?扱いやすさによって捨てられた日本人性。もしかしたら上で扱っている人間自体も本来の日本人性など疾うに忘れてしまい、みんなでその「ただのお面」を「これが日本の顔だ」とばかりに勘違いして、日本を創り上げている節がある可能性もある。

 おそらく以前の学生運動的なムーブメントは、その表現こそ過激ではあったが彼ら彼女らが本来訴えかけたかったメッセージは、「それが日本じゃねーだろ」「それが日本人じゃねーだろ」というメッセージだったのかもしれない。そしてその牙まで抜かれた今の日本は、もはやこのお面を自分の顔と信じて疑わない、日本の歴史と伝統については二の次以下にして、いかに従順な労働ロボットとして日々のルーティンを黙々とこなすかどうかに焦点を当ててしまった結果としての社会が今の日本社会なのではなかろうか。

 単純に、朝の駅のホームや電車の中がそれこそパーティ状態で、人々がパーリーピーポーにでもなっているのであれば話は別で、それこそ毎日が楽しくてしょうがない事だろう。だけど、行けば分かる。見れば分かる。そこにいる覇気のない人々の表情、そしてエネルギーの低さを。別にそこにいる人たちをDisっているのではなく、そういう生き方をすればそうなるのはそれこそ当たり前の事なのだ。私はあのライフスタイルを「死への行進」のようにしか今は見えていない。

 それこそ、私自身もそれに気づかず毎朝駅のホームへ行き、電車にギューギューになて通勤していた時代がある。そうしなければ生きていけないと思ったからだ。だけど、まったくそんなことはなかった。なぜ、「サラリーマンをしないと生きていけない」と思ったのかが分からない。ということはなく、やはり子どもの時からずっと、「勉強が出来ることが良い事」「良い会社に入ることが良い事」と擦りこまれてきた。それこそルーティン以上に、もはやそれは空気となって我々を包み込んでいたし、息を吸えばその空気が体内に入ってきてしまうのだから、「いやいや、今の日本は別に復興モードの緊急事態じゃないんだから、もっと自由に楽しく生きられるでしょ?」なんていう事に気づく心の余裕もないし、「これおかしくね?」と何度も疑問に思ったが、それこそ「思春期によくある反抗期的なアレですね。」ぐらいにまわりの大人達からは軽くあしらわれ、反抗期を過ぎて「やっぱおかしくね?」なんて事を言えば、それこそ今度は大人達からだけでなく、同年代の者達からも「お前の方がおかしくね?」ぐらいの事を言われ、一人疎外されていく。そしてやっぱり自分の方が間違っているのかなと自信をなくし、社会に迎合してしまい、その「復興モード用のお面」をこんな時代でも重宝してしまったのだが、やっぱり現実を冷静に見てみれば、やはりそれは戦後日本復興モード用のお面に過ぎなかったのだ。

 サラリーマンはストレスがハンパない。先ほどなんとなく典型例を挙げてみたが、上司であれ、取引先であれ、もちろんあいつらが好きな事を言うのは良い。だけど、こちらが好きな事を言い返せるようなそれこそ平等なルールはなく、かなりのハンデ戦をさせられるというよりもそもそも勝ち目がない。そうは言ってはいないけど、ある種のご主人様ごっこであって、下の者はある意味の奴隷のような状態として生きることになる。もちろん、会社であったり、そこにいる人間達の質によってその奴隷をどのくらいの強弱で強制させられるかの度合いは違うが、最悪な環境に入ってしまえば奴隷以下と言っても良いかもしれないし、基本的には無駄にストレスが溜まる環境に週に5回×8時間程度身を置くことになる。

 極端な話、「自分の内側の世界」を健康に保つことが出来れば、そういう劣悪な環境下においてもストレスを溜めずに、健全さを保って生きていく事も可能だろう。だけど、考えてもらいたいのはだからと言って「自分は心強き人間だからどんな状況でも大丈夫だ。」とばかりに、敢えて自分の家をゴミ屋敷状態にして腐った生ごみに囲まれた中で生活をするだろうかと問えば、いちいちストレスの溜まりやすい状況下にわざわざ身を置くというのはナンセンスであって、それを繰り返すことを楽しめるのは、SMごっこを生きがいに感じている者でしかないような気がしてならない。

 それに、多くの人間は「不労所得」的なライフスタイルに憧れているのは何故なのだろうか?それは「働きたくない」という願望の表れそのものだろう。ちなみに私は「サラリーマンはやりたくない」が、「働きたくない」などと思ったことは人生の中で一度もない。なので、「働きたくない」と思う人間というのは、相当毎日がきついのだろうなと察してしまうのだ。むしろ「働けない」なんて事になったら個人的には、もう死んだ方がマシなんじゃないだろうかという気持ちになってしまう。働けるから幸せな気持ちになれるし、個人的な話をしてしまえば私はいつ休みがあるかも分からないし、1日何時間働いているかもわからない。それこそ日本人の本来性を発揮させて、遊びなんだか仕事なんだか分からない「迎合的融合」をしたライフスタイルを確立することが出来たので、サラリーマンが朝から夜までこつこつ毎日溜めるようなストレスをほとんど受ける事がないのだ。

 これは自慢ではない。ちょっと自慢したい部分も無くはないが、別に自分が特別能力が高いからこういう生活が出来るという事を述べたくて書いたわけではなく、「今の時代ならばそういう生き方を誰でも出来る」と提唱しているということだ。「では多くの人は何故できないのか?」それは約20年前の私と同じで、その「サラリーマンというお面」を自分の顔だと信じて疑わずに生きているから、というただのそれだけの事。だけど、その「ただそれだけの事」に気づくことも難しい。だって「それが当たり前」なのだから。そして、例えば40年もそのお面を自分の顔だと信じて疑わずに生きてきた人間が、今更気づいてしまうとやっぱりある種のパニック状態というか、「それは分かるんだけど、今更もう無理だろ・・・」という事で、気づいたけど見て見ぬふりをする人間も少なくないだろう。その気持ちはもちろん分からなくもない。前に進もうが、後ろに下がろうが、どっちにしても不利なように思えるからだ。もう、その生き方に慣れてしまったのだから疑わずに最後まで突き進んだ方がよっぽど楽なのかもしれない。日常のストレスに対しての耐性はついているが、それこそ「自分らしく」「日本人らしく」などという生き方に今からシフトする体勢をとることの方がよっぽど不慣れで別のストレスを感じるかもしれない。だけど、多くの人達は宝くじに夢を託し、「三億円当たったら会社を辞めて・・・」みたいな自分にとっての夢のライフスタイルを思い浮かべてみたりするのだが、別に「会社を辞める」為に、三億円持っていないとやめられないなどという条件はついていない。

1:日本からJapanへ。~良くなった部分と、悪くなった部分はどこか?~

1:日本からJapanへ。~良くなった部分と、悪くなった部分はどこか?~

 

 この章では、日本が純粋に日本として進んできた時代から、『西洋』にかぶれ、挙句の果てにアメリカ様にべっちょ染められてしまってもはや「日本」というよりも「Japan」と呼んだ方が適当だろうという時代からの日本についていろいろと考えたり、論じてみたりしたい。

 ではざっくりと良くなった部分と、悪くなった部分について考えてみたい。まずは「良い部分」からだが、やはり良くも悪くも「戦争しない国」になったのは良い事なのではないかと思う。それを日本は戦争に負けたことでそうなるのではなく、「我々はどことも戦争しない。」と自ら宣言していれば、その後アメリカに何かされたら、完全に悪者はアメリカだったと思うのだが、まあそれは出来なかったでしょうし、そうならなかったのがちょっと残念ですね・・・「平和」と「ヘタレ」は違うんですけど、これがなかなか難しい。何もしないと、ちょっかい出してくるめんどくさい奴とか学校に必ずいて、そういうのがちょっかい出してきても、相手にしないと、どっかのお笑い芸人コンビの総理大臣ごっことか好きな奴みたいのが、そのままやらせっぱなしにするとちょっかいが激しくなったりしそうな感じがして、それでも黙っておくのか、ある一線越えたら倍返しするのか。みたいな事を考えるとやっぱ難しいんだけど、基本スタンスとしては「日本は戦争をしません。」とカッコよく言ってもらいたかった気持ちもありますが、もしも、本当に日本がアジアのいくつかの国を助けに行ったのであれば実際の歴史でも、当時の日本って英雄なのかもしれませんが、それはちょっと美化しすぎなんじゃないかなって節があります。そもそも中国人とか朝鮮人を殺していたのは事実ですし。東南アジアの中での「日本は英雄話」ってのは、敵の敵は味方みたいな状態にどっかしらの国ではなってただけなんじゃないのかなと。

 そう考えると、決して日本が特別野蛮な国だったんじゃなくて、どちらかというアジアの国々を植民地化しようとしていたアメリカだったり西洋の国々の方がよっぽど野蛮だと個人的には思いますが、まあ勝てば官軍って事で、彼ら西洋式のやり方が正しい流れになってしまいましたが、それこそアジア人達は、アメリカにも西洋にも攻め込んではいませんよね。どちらかというと、日本人達は西洋から何かを学びたかっただけだったのに、なんだかおかしな方向に進んでしまいました。もちろん、男がハニートラップに引っかかるのと同じで、日本のにそういう領土広げたいというよな下心はあったのだと思いますが、やっぱり歴史の教科書で書かれてそうな勢いで、日本の事を悪者視するのはやりすぎなんじゃないかなと。

 ただし、「相撲に買って勝負に負けた。」という言葉のように、日本は「戦争に負けて平和を得ることが出来た。」と言えなくもないのかなと。たしかに、戦争で亡くなった多くの方達、特に軍人でもない民間人の方にはいたたまれない気持ちにはなりますが、もはやどうしようもないことですから、その人たちの分生きている日本人が、頑張っていくしかもうやれる事は無いのですが、だけど、どんな形であれ日本は「戦争をしない国」になれた訳です。これは戦争には負けたけど、ある意味の勝利だと私個人は考えています。もちろんこの考えに対して「何を言っているんだ、お前は。それでも日本男児か。」とDisられる事を覚悟で述べていますが、もしも、1945年以降も日本に軍隊が存続していたら、それによって何人の日本人がこの70年間で命を落とすことになったのでしょうか。という事を考えれば、やはり「平和っていいな」って気持ちはどうしても強くなってしまいます。

 確実に、この70年間の歴史で何度か戦争に参加することになっただろうし、それこそ、アメリカと日本の関係は同盟国といえども、織田信長徳川家康の関係のような同盟関係でしょうから、汚れ仕事は全部日本側に「お前やっとけ」的に任された可能性が高かっただろうとも言えます。それを「お前ら危険だから二度と戦争すんじゃねーぞ。」って方向になったのは素晴らしいと考えます。

 もちろん、日本のお隣の国々が、危険な感じになっていて、イエローカードもんのラフプレーを仕掛けてきたとしても日本は手を出せない軟弱な国になってしまった。どうするんだ?と言われてしまえば、「だったら軍隊あった方が良かったのかな?」とも思いますが、それこそ、何故人はそんなに殺し合って領土を取り合いたいのかを世界各国でもっと話し合えば良いのであって、「何かされたときに、自分たちも手を出せるように。」などという事を議論するのは果たして建設的なのでしょうか。

 それこそ、本当に「何かあった時」は、「日本は、一切手を出しません。」って言ったてそんな約束は反故にしちまって、レッドカード覚悟でもやっちまえばそれでいいんじゃねーの?って事でもあるでしょうし。サッカーその他を見てたって「有事の際は退場覚悟でも反則をおかす」というのはひとつの戦略ですから、もちろんルール破って日本からどっかに攻撃するなんてのは言語道断ですが、「あっちから何かされたとき」ってのはルール破ってもかますかかまさないかは、別問題として考えればよいだけで、別に世界から「勝手に日本がやり返していいよ」なんていうお墨付きをもらおうがもらわなかろうが、そんなの関係ねぇ。って事なんじゃないかなと。ただ、基本的に「戦争をしない国日本」っていうのは本当に素晴らしい事だと思います。なんか、基本的な日本人らしさを醸し出せている気がして。というか、「戦争しない国日本」は、日本という生命体が、戦争にかぶれた日本人達に対して起こしたホメオスタシスなのではないかなと。そこに「過剰な日本人性」が滲み出ている気がしてならないのです。

 もちろん、そこに引っ張られて日本人はお人好し過ぎる。という欠点もあるのかもしれませんが、その「お人好し」という部分は、戦争に負けて過剰になっている部分もあるけど、そこは「日本人の本来性」なのではなかろうか。と私は考える。

 なので、日本人はお人好しで良いのだと思うし、その人の好さを存分に活かせばよいのだ。もちろん、サッカーと同じでお人好しになんてやっていれば、自国の領土をいつのまにかさらに削られて、それこそいいように利用されてしまうかもしれないが、やはり他国が汚い手を使ってきたからといって、「だったら自分たちも」というやり方に引っ張られてしまう事の方が、日本が日本らしさを捨て、魂を売ってまでしてなんとかしてしまう日本らしくない浅ましい低ステージの生命体に成り下がるような気がしてならない。

 別に他国をバカにしている訳ではないが、私自身は「日本最高」の精神で生きているので、「シャツを引っ張っても審判が見てなけりゃそれでいい」だとか「手を使ってゴールして『神の手』」みたいな戦略を日本人が使う必要はない。日本はそんなカラーでもなければ柄でもない。白地に赤丸のあの国旗からそんな汚い精神が滲み出ているとは思えない。それこそ審判が見ていなかったとしても、日の丸はずっと我々日本人を見守り続けているのだろうから、そういう日本人らしくない事をしてまでして、価値にこだわる必要もないと私は考える。

 そんな事をして勝てば、他国から「おお、日本も我々の一員になったようだな。」と思わせるような一因を自ら作っているようなものだ。もっと分かりやすく言えば、伊勢神宮や皇居を洋風なつくりにして「近代美術」とか言っちゃうようなものと同じだ。

 我々のやり方で、世界を驚かせてこそ「本当のmadeinJapan」であって、西洋の真似事をして世界を驚かせたところで、「あのイエローモンキーは猿真似が上手いね。」と評価されるだけで、別にそれ以上もそれ以下もない。そこに「日本らしさ」「日本人らしさ」がなければ、どう評価されたとしても意味はあまりないと考える。

 ただし、もしかしたら日本人は良くも悪くも「猿真似」のスキルはヤバすぎるぐらい溢れているとも言えるので、それを活かさない手もないだろう。というのも事実としてはあるだろう。「いろんな神さまと仲良くなれる民族」が日本人なのだから、「これは日本」「あれは西洋」と受け入れない文化ではなく、受け入れて融合する事にかけては天才的なセンスというかDNAを我々日本人は持っている気がしてならない。

 それこそ、日本人のように西洋人たちが、上手に「和風」を取り入れる事ができているように見えず、せいぜい「カルフォルニアロール」がせいいっぱいのセンス。それこそ、フッチボーラージャポネーゼ以上に、日本の文化を他国が上手に真似する事などほぼ皆無に近いレベルでできているとは言えない。

 その「独自の日本性」と「猿真似スキルの異様な高さ」をかけ合わせてつくられたものが、madeinJapanのものの中で、世界を驚かせているようなものであり、者なのではないだろうか。なので、この両者のどちらも欠くことは出来ないし、欠いてしまうと、日本国内ではまだ良いにしても、日本の外側に出て評価を受ける事は難しいだろう。それこそ日本人はお人好しだから、「猿真似の上手な猿だねー」と笑われてていても「嗚呼、スゴイ喜んでくれてるなこの人たち」ぐらいの誤解をしする可能性は低くもないが。

 やっぱり日本の外側の文化、国民性の持ち主の人間達には日本はまわりくどいように見えたり、何が言いたいのか分からないと言われがちなのだろうけど、そこにサッカーの試合中のユニフォーム同様、そこの部分に引っ張られる必要はない。そもそも、我々日本人同士ではそのまわりくどさは受け入れられているし、会話も普通に通じているではないか。「互換性」というのは大事かもしれないが、媚びへつらって胡麻を擦って近づいたところで、そのやり方は日本人としての純度を下げて、それこそ西洋の付録程度にしか成り下がっていない。

 日本の独自性というのは「迎合しているようで実は融合している」というスタイルなのではないだろうか。日本国内の西洋料理であれ、中華料理であれ、本場のそれらとは違うものになっているだろうけど、それが決して「カルフォルニアロール」のようにはならない。あれを日本っぽく置き換えれば「肉じゃがバーガー」みたいなとてつもなくダサい感じの食べ物をつくり出すことになるが、日本的なセンスの高い者はそういう「なんかとなんかをくっつけりゃそれで融合」みたいな事を決してやらない。ラーメンが一番わかりやすい例なんじゃないかと思うが、もはや中国の食べ物だったラーメンはどちらかというと日本の食べ物になってしまった。そしてとんでもない進化を遂げている。あれが「日本式迎合的融合」なのではないかなと。

 この「融合」と「迎合」のバランスが絶妙であるかどうかで、日本人であれ日本の価値が高くなったり低くなったりするのだ。それは相手の力を利用する合気道的な要素がかなり含まれている気がする。日本的なスタイルというのは「相手の力を利用して三倍返し」的なスタイルであって、筋肉量の勝負をすれば西洋人に勝てるDNAも伝統も持ち合わせていないが、「相手の力を利用してそこに自分の力も載せて返す」というスタイルであれば、日本は世界のどこにも負ける気がしないように見える。つまり、そのスタイルで生きている民族が日本の外側にいるように見えない。

 それは、日本は世界から見れば小さな島国で、資源を自分の国では賄うことが出来ない事もその要因になっているだろうし、日本人そのものが「工夫して加工する」という職人気質的な気質を持っているのではないだろうか。こんなにさまざまな地方に、さまざまな種類の伝統工芸品がある国が、日本の外側の国に存在するのだろうか。あまり聞いたことがない。乱暴な言い方かもしれないが、「職人の国ニッポン」で良いのだと思う。「サラリーマンの国ニッポン」になったのは、明らかに戦争に負けて復興させるための戦略をとりはじめてからであって、そもそも士農工商の中に「サラリーマン」が含まれているように見えない。

 この「職人」というのは、別に工芸品という物質的なものをつくるということだけではない。物質的であろうが、情報的であろうが、「職人気質の発揮される仕事」を日本人が行えば、それこそ「大和魂」が発動されて、世界を驚かせる発明であれ、開発ができるのではないだろうか。「指示待ち人間ニッポン」というのは、それは戦争に負けた時は逆らったらもっと危険な目に逢うかもしれないから逆らえないだろうし、日本の復興をという時も誰かの指示に従って進んだ方が効率が良いのも当たり前の事なのだが、それらが、戦争をしていた代の孫、ひ孫の代まで引き続く必要はないと考える。そして、何度も言ってしまうが日本はもはや復興するために頑張っている国ではない。

 それこそ、「有事の時は緊急事態なのだからいつもとは違うモードで」というのと同じで「復興モード」というものは、有事の後に応急処置的にとられた対応であって、その応急処置モードの時の日本を「これが日本だ。」と思い込むのは、日本人の悪い部分である「迎合力」の高さがとんでもなく偏って出てしまった典型的な例なのではないだろうか。

 緊張しすぎたり、思い通りの展開にならなかったりすると、人はテンパって我を失う事があるが、まさにそれと同じで、戦争に負け、なりふり構わず日本をどうにか復興させようと突き進んだ日本は、「日本の本来性」という自分を見失いかけたか、もしくは見失ってしまった可能性がある。私の主張は日本人はそんなに指示待ち人間型の民族ではないという事。その他「自然の神」と「バランスのとれた迎合的融合」をしながら職人気質に面白い文化を生み出して、独自に楽しんできたそれこそ「オタク民族」なのだと考えている。だから、「オタクイズビューティフル」的な事を世界からは言われたりするのだ。「オタク」である部分を良い方向に出すか、悪い方向に出すか。資源のない日本が、世界にこれでもかというぐらい輸出できる資源はこの「オタク力」であり、その「オタク力」を日本の歴史と伝統に照らし合わせて、他の追随を許さないレベルでひたすら「オタク力」全開で、「ディスイズジャパン」的な日本テイストを世界にブチかませば、それで良いのだ。もうこんな平和な時代に、いちいち『西洋』にべったり迎合しすぎて、ムヒを塗ってもかゆみがおさまらないレベルでかぶれる必要はまったく無く、思いっきり、「大和魂」を発動させて日本人の独自の世界観を出していくことが、世界の中においても無比な存在になれるのであって、もういちいち70年前の傷を気にしていちいち慈悲を請うような生き方を我々孫、ひ孫の世代がする必要がない。