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原澤出版の執筆用ブログ

1:人生戦略でこれだけははずせない最強の戦略セオリーとは

1:人生戦略でこれだけははずせない最強の戦略セオリーとは

 

 まず、"戦略"という意味について共通の理解を作っておきたい。よく「戦略と戦術の違いとは何か?」という話が出ることがあるが、これはいつ話してもなんとなくあいまいな気がする。言葉で言えばもちろん違いについては分かるのだが、では本当に分かったのかというと分かっていない気がする。まず辞書を引くとこう大体は記載されている。

 

[戦略]

1 戦争に勝つための総合的・長期的な計略。→戦術
2 組織などを運営していくについて、将来を見通しての方策。「経営戦略の欠陥」「戦略的人生論」「販売戦略を立てる」
[補説]具体的・実際的な「戦術」に対して、より大局的・長期的なものをいう。

 そして「戦術」はこんな感じだ。

 

[戦術]

作戦または戦闘の直接目標を,最も効果的に獲得することをねらいとして行われる方法的技術。軍隊の編制,装備,配置および戦力指向の方向,時機,目標などにわたる。戦術は,方法的技術であって,それを展開し,具体化して,計画,命令,実行の過程を踏ませるのは「指揮」である。 

 簡単に言えば「戦略」と「戦術」の関係は親分と子分の関係のようなものと考えてよいだろう。もうそのあたり関しては「それは戦略じゃなくて戦術だよね?」だとか「それは戦術ではなくて戦略だよね?」みたいな話についてあーだこーだと論じ合うよりは、それこそ目標を達成させるためであったり、遂行するための議論に時間を割いた方が生産的であり、建設的なので、「そのあたりのこと」っていう事で理解すればよいと私は考えている。大まかな作戦が「戦略」。それを実行するための方法が「戦術」。この程度で十分だ。

 それよりも、我々は少なくともこの本に書かれている1章、2章の内容を踏まえて、この世界というスーパーマリオの各ステージをクリアして、とりあえずはお釈迦さまが辿り着いたステージまでは進まないと、とっておきの裏ステージであったり裏技、隠れアイテムや隠れキャラ達に遭遇する確率は極めて少ないと言えるので、まずは、そこにたどり着くまでに何に気を付け、どう攻略して各ステージをクリアしていくかを理解する事が先決だ。

  例えば、そのスーパーマリオブラザーズで考えると、こんな戦略がある。「何回ミスっても大丈夫作戦」とか「ひたすらめんどくさいことは排除作戦」とか。他にもサッカーの戦略で言えば「失点をしないで勝つ作戦」だとか「失点は気にせず相手以上に得点して勝つ作戦」などが分かりやすい戦略といえる。

 そして今回のこの項のタイトルを私は、人生戦略でこれだけははずせない最強の戦略セオリーとはとしたが、この世界というゲームの中では絶対に外せない戦略であり戦術がある。ここについて都合よく考えて、このゲームに挑んだ者はこの世界のゲームの中で何に挑もうが、途中で階段の踊り場のアレにやられてしまうか、なんらかの理由で命を落とすかなどして、スーパーマリオでたとえれば、ステージ2かステージ3あたりで大体Gameoverになっている者がほとんどだろう。「イケる」と思い込んで無謀にツッコんだ結果、そんなに都合よくはいかず「ハイ、残念でしたー。」的なあの感じ。何度でも表現するが、それは祭りの時に子どもが的屋にいいように転がされてこづかいを巻き上げられるあの光景とフラクタルの関係にあるのだ。

 なので、この戦略のセオリーは誰であっても、何にチャレンジするにしても絶対に外せないセオリーなのだ。そのセオリーとは一体何なのかというと疑うという事に他ならない。「自分の外側の世界」に関しても、「自分の内側の世界」に関してもひたすら疑う。これ以外にまずお釈迦さまの辿り着いたステージに、我々が同様に辿り着くことはまずないと考えておいた方が無難だ。この疑うというセオリーから目を背けてそれこそ「自分は特別だから大丈夫だ。」などと高を括ってこのゲームに挑んだ者は、それこそ途中で「あ、ヤバい。。。このままだともう先に進めない。」ということに自分自身は気づくのだが、やはり進んで進んで進んだ先が行き止まりだった時、後戻りしてやり直すという事をしてまで、チャレンジを続けられる精神力をほとんどの人間は持ち合わせていない。すると人間はどういう対応や反応を見せるか?2章の最後で述べた「人生の三大不純物」である"カッコツケ"をそれこそ、ベタなお笑い芸人の「お約束」の如く必ず披露してくれる。

 もちろんそこまで頑張った事も分かるし、そこまでの苦労や疲労もそれなりにあることだろう。だけど、それはその者が"疑う"というそれこそこのゲームにおける命綱的セオリーをつけずに、登ってしまったツケがまわってきてしまっただけなので、分かるんだけど、「あれだけ言ったのに、調子に乗ってそうなっちゃったんだからしょうがないよね。」としかこちらとしても言いようがない。

 誰かの人生を他人がどうこうすることは出来ない。本当は出来るのだが、出来るのは例の傀儡的なものなので、それは救っているのではなく、その人間の人生の足を掬う事になるので、少なくとも私個人はそのような手を差し伸べることはしない。

 それこそ、何かしてあげることは出来ても、それはその人間の人生の純度を低めるお手伝いにしかならないからだ。私から誰かに共通して言えることは、「とにかく"疑う"という命綱だけはしっかりつけて冒険を楽しもうぜ。」ということだけだ。もちろん命綱なしでゴールまで登り続けたらたしかにカッコイイとは思う。ただ、まず命綱なしでこの山を登ったものはいない気がするし、もしかしたらお釈迦さまはそうだったのかもしれないが、個人的には命綱をつけて登る事がカッコ悪いとも思えない。むしろ途中で行き詰ってしまった時に、お決まりの如く"カッコツケ"てしまう事の方が、よっぽどカッコ悪いと私は考えている。たった3機のマリオで8-4のラスボスクッパを倒すのも、途中で無限増殖してたくさんやられたけど、ラスボスクッパを倒すのもそれほど違いはないと考えているし、何か違いがあったとしてもそれは各自の自己満足に他ならない。そもそも、歴史上"疑う"という命綱なしでそこまで辿り着いた者を私は知らないのだ。むしろ、その命綱があったとしても、途中でGameoverになる者たちが続出しているというのに。。。

 まず、この世界というスーパーマリオ的ゲームなのだが、とにかくそのクリボーやらノコノコやらといった物理的な敵キャラというのは、それほど攻略するのが難儀ではない。とにかく難しいのは、「これでイケる」と思い込ませる一種の毒ガス的というか放射線的な「見えない何か攻撃」がこのゲームは半端ない。その「見えない何か攻撃」に自分の心身が蝕まれると、そもそも身動きが取れなくなる。例の「階段の踊り場状態」だ。もうその状態になってしまうと、それこそ強い薬物中毒の状態だったり、成人病やなかなか完治しない系統の病気にかかってしまったのと同じで、ほとんどその状態から抜け出すことが出来ない。もはや、これらの脅威を回避して進んでいくには、「その状態にならないようにする」しか取れる戦略はないように思える。

 そうすると、もう地雷を踏んでしまった時点で終わってしまうのだから、「もしかしたらここに地雷があるんじゃないか?」「いやいや実は別のこんなところにも地雷があるんじゃないか?」とひたすら疑って進むしかない。この「見えない何か攻撃」はほとんど見えないのだから、もはや逆に言えば我々は暗闇を手探りで進んでいるようなもので、そんな中、ちょっとでも出す足を間違えればどんなにそれまで頑張っても、地雷を踏んで一発でこれまでの冒険に割いた時間や労力はなんだったのー。とばかりにそれらの積み上げてきたものを一瞬で吹き飛ばしてくれる。

 そして、スーパーマリオと我々の人生における大きな違いは、マリオは1UPできるけど、我々の命は1つしかないということだ。例えば四十年生きて来て「やべ、間違えたっ」と思ってやり直すにしても、後戻りして間違ったなと思うところからリスタートする事は可能だが、決して二十代のあの頃の若さを取り戻すことは出来ないし、後戻りするところに戻るにも時間や労力が要求されたりもする。そんな構造が、人間の人生のリミット的なルールになっているので、やはり途中で「やべ、間違ったかも。。。」と気づいた人間は、もうどうしてもそこからは"カッコツケ"て生きるしか選択肢が残されていないというのが実際のところなのかもしれない。

 そういう部分もあって、是非、この本は若者たちに読んでもらいたいし、できれば子どもの親たちが読んで、社会の傀儡の操り紐を括りつけるのではなく、この"疑う"という命綱を自分であれ、愛するわが子に括りつけてもらいたいと願うばかりだ。この本ではいかにも、多くの者がこの世界というスーパーマリオのステージクリアにチャレンジしているような誤解を与えてしまったかもしれないが、基本的にはほとんどの者がその社会の傀儡になってしまって、ゾンビのように彷徨っているだけに過ぎないので、命綱がどうこうの話以前の問題を抱えている者の方が多いのが実情であって、実際のところは漫画「進撃の巨人」の世界と同じように、無知性の巨人がただただ徘徊しているようなあの世界に似ている。実際はそこから抜け出すことが第一関門と言えるかもしれない。そして、その第一関門を抜け出せたところで、そこからが本当の冒険の始まりであって、冒険を始めるにしても残酷なまでの罠の数々が張り巡らされているという世界がこの世界なのだ。もちろんお釈迦さまをはじめとする先輩たちが、先に進んで道を記してはくれているのだが、やはり自分で進んでみると彼等や彼らのお弟子さんたちが書き記した書物をヒントに進んではみるけれど、やっぱりそんなにゲームの攻略本のようにすんなりと先には進めない。そもそもやっているゲームは同じなのだけど、見た目が大分二千年前三千年前とは変わっちゃってるし、いろいろとやりやすくなった部分もあれば、お釈迦さまがそのステージに辿り着いたような状況でも今はないので、やっぱりいろいろと自分なりの解釈をしつつ、自分を実験台にしつつ、まわりの人達も見つつ、どうすれば現代版の方でそこまでのステージに辿り着くかについては、結局は自分自身がこの時代におけるお釈迦さまになるしか方法はないのかもしれない。あの頃と違って、有利なのは「情報を共有できる」という点が強いかもしれない。反対に不利な面は「欲望を掻き立てるような例の見えない攻撃みたいなもの」の種類がハンパなかったり、基本、そんなにこの世界というスーパーマリオを本気でチャレンジしている人間が非常に少ないという部分もある。チャレンジしていない無知性巨人のような人たちのデータはいくらでも取れるので、それらを反面教師にするという方法ももちろん重要ではあったりする。

 正直なところこんなことを書いているが、「もしかしたらそんな自分は無知性巨人側にいるのかもしれない」ぐらいに自分を徹底的に疑うことが必要で、それこそ本当にその「見えない何か攻撃」というのは脅威なのだ。油断すればすぐに自分の心身に寄生して一瞬で全身に広がっていく世界最強のウィルス的存在なのだ。実際、人間だれしもがん細胞を持っていて、そのがん細胞は毎日増殖している。では健康な人間はなぜがん細胞に侵されるのかといえば、その増殖するがん細胞を殺してくれる免疫システムがあるからだ。そして、がん細胞に侵されてしまう者というのは、この免疫システムに異常があるということだ。この構造はまさに、この世界というスーパーマリオのステージクリアができる者とできない者の違いとフラクタルな関係にあるように見える。"疑う"というこの人生戦略のセオリーは、まさにこの世界というスーパーマリオ内にある増殖するがん細胞を殺して抑制する免疫システムの将軍的存在と言っても過言ではない。だからこの"将軍"を連れて行かずにチャレンジしたり、途中でこの"将軍"がいなくなってしまったりすれば、結果はもう説明する必要はないと思うが、それこそこの世界に充満する「見えない何かの攻撃的がん細胞」が増殖し続け、それこそそういうハイエナの大群に一瞬で自分の人生であれ、生命は食いつくされてしまう。

 しつこくなるが、あなたがこの世界というスーパーマリオに本気でチャレンジするのであれば、この最も頼りがいのある命綱的"将軍"を同行させる事をお勧めする。