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原澤出版の執筆用ブログ

10:人生における三大不純物「カッコツケ」「ニギシメ」「セコイ」について

10:人生における三大不純物「カッコツケ」「ニギシメ」「セコイ」について

 

 さて、2章もこの項で最後、今回は人生における三大不純物について思いっきり論じてみたい。これはまさに持ち歌であれば、私の十八番の曲のような部分だからだ。実際、私が多くの「上を目指す者」達を見て来て、上に進む者、どこかの階の階段の踊り場の宝箱の"報酬"にやられてその歩みを止める者。また歩みを止める者に関しても、低い階で早々に歩みを止める者とそうでない者。その違いを考えてみると、この「人生に純度が高いか低いか」の差によって、どこまで進めるかが決まっているように見えるのだ。

 もはや、この世界になど意味もなければ意図もないので、好き勝手やればよいのだと思うが、それでも「生命」であり、「人生」には純度のようなものが存在していて、やはり分かりやすく考えてみれば、「黄金のような人生」もあれば、「石ころのような人生」も存在しているような気がする。しつこくなるが、それらは「金」だの「経済力」だのに決して依存していない。むしろそこに執着する人間の人生の純度はそれほど高いようには見えない。私が見ていて人生の純度の高い人間は、そんなところに意識がフォーカスしていない。もっと純粋に自分の人生を楽しんでいるように見える。そもそも経済力と人生の純度が比例するのであれば、釈迦やキリストの人生の純度は極めて低いという事になってしまう。「経済力が人生の純度と比例する」と偉そうに説いている者達にこの質問をするとどう返してくるのか興味がある。

 純度の高い人生とは、ただ自然と生きているだけで、この本に書いたような目に見えない、耳に聞こえないような「自分の外側の世界とは違うもう1つの世界」の存在であれ、仕組みと向き合う機会を与えられているような気がしてならない。もしかしたら、この世界の本質と向き合える資格を得るためには、ある一定の純度の高さの人生を歩まない限りは、そこと向き合えるステージには到達できないとも言える。

 あなたは、何の因果かは知らないがこのとてつもなく怪しくとち狂った内容の書かれた本を幸か不幸か手に取ってしまった。そして読んでしまった。もしもあなたの人生の純度がすでに高ければ、これらの事を読んでもそれほど不思議には思わないかもしれない。人生の純度の高い人間には、この本に書かれたことがただの理屈ではなく、感覚的にどういうことであるかを理解できるからだ。いちいち説明の必要もなく、そういう世界の中で、それらとの関係とそれこそ何らかによって対話したり、遊んだりしているのだから。

 そして、この本を読んでみて「なんじゃ、こりゃ。。。」と思った方は、もしかしたら間違って場違いな店に入店してしまったあの状態と同じなのかもしれない。興味本位で入ったものの、「ちょっとやべーんじゃねーかこの店。。。店員も客も。。。」的なあの状態とまさに同じ。もちろんそのバツの悪さに関しては拭うことは出来なくとも、「これは見なかったことにしよう」と、ここを知る前の世界に後戻りする事は可能だ。社会のルールを守り、常識に則り、お国の敷いたそのレールの上に載っているきかんしゃトーマスごっこの世界に帰る事はいつでも可能だ。

 だけど、この本の内容に対峙している人間というのはそんなレールの上を規則正しく走って行き場を限定されているような列車ではなく、空を自由に飛べるアンパンマンのような者なのだ。それこそ「何のために生まれて何をして生きるのか」「何が君の幸せ何をして喜ぶ」という2大アンパンマンマーチ哲学の問いに対する答えを自ら探しに行くアンパンマンそのものなのだ。

 トーマスとアンパンマンの声が仮に同じであったとしても、両者のステージはまったくもって違う。それは生きている世界が同じであっても、ステージによってどのような質の人生を生きているのかを決めているのと同じように、似ているようで全然違う。だけど、実際はこの世界に何も意味はないので、本来は大差ないのかもしれない。目を閉じて両者の声を聞けば声は同じなのだから、彼らの人生は、同一の人生なのかもしれない。それこそマスオさんが会社に着いたらいきなりアナゴ君から「ぶるぁぁあ」と言われても「エエェェェェ」的なリアクションをして驚く必要はないし、アナゴくん自体もマスオさんを驚かせるつもりは毛頭ないということになる。別にいきなりそういう奇声を発したって問題はないのだ。この世界はなんでもありのゲームなんだから。

 それでも、生命には純度がある気がしてならない。もちろん人間は自分の都合の良いところばかり見て、都合の悪いところはどんなに見えやすいところにあったとしても見ようとしないのが人間の性なので、「生命に、人生に純度があって欲しい」という私個人の願望が、ただただ投影されている世界観なのかもしれない。だけど、自分なりに自分であれ、自分以外の人間であれを観察していると、何か「生命の純度、人生の純度」というものがある気がしてならない。もちろん純度が高ければ偉いとか、純度が低ければ偉くないとかそういう事が言いたいのではない。だけど人間には純度がある気がして、その純度というのは別にこれも決まっている訳ではなくて、各人が自由にその純度を高めたりもできれば、低めたりもできるようになっている。

 これをある者は「自分のバージョン」と定義した。このような世界観をある者は「パラレル宇宙」とたとえた。人生とは選択の連続だ。その選択の連続で自分の人生の純度が高くなったり低くなったりして、その純度に応じたバージョンの自分の人生が自分のまわりに現れる。もちろん、その純度に応じて関わる人間達の純度も同様の純度の人間達が現れることは言うまでもない。

 では、その人生の純度とは何によって決まるのだろうか?これも良く言われている言葉に「自分100%」的な言葉があるが、簡単に言ってしまえばそういうことなのだが、ということは、ほとんどの人間は「自分100%未満」で生きていることになる。

 私自身、人生の純度とは純金の99.9%の純度を99.99%、99.999%へと不純物を取り去ってこの「9」をいくら付け足せて、100に近づけていくかの営みだと思っている。もちろん我々人間は99%などほど遠い数値にいて、不純物だらけの可能性もある。その点についての解釈の幅に個人差が出たとしても「不純物を取り去っていけば純度が増していく」ということには変わりはないし、人間の生命や人生の純度が100から遠ざかっている理由は、不純物があるからという理由に相違はない。

 それでは、人生の不純物とは一体何なのか。私はこれまでいろいろな立場、役割の人間を見て来て、その不純物となる特徴・共通点を3つにまとめた。それが、人生の三大不純物である「カッコツケ」「ニギシメ」「セコイ」なのだ。

 まとめてしまえばこれも1つに集約されてしまうのだが、私の中では3つに分類した。まず1つめの「カッコツケ」だが、自分をさらけ出せない時、人はどういう態度を取るのかというと「カッコツケ」るのだ。つまりそれはどういう事なのかというと、その本人の中にない「とりつくろう為の適当な自分」を演じ始める。「キレイごと人間」と表現しても良いかもしれない。当たり障りのない事を言って、なんか小ぎれいに済ませる的な。まさに自分の個性を捨ててまでして、綺麗ごとでその場をやり過ごすという姿勢にもはや「進化」というベクトルとは違う方向を向いたり、進んだりしているように見え、そうなってしまった状態の人間の生命力であり人生は純金という純度から見てみれば輝きのない鉄くずのように見えてくる。

 2つめの「ニギシメ」だが、これは過去の自分を握りしめてしまっている様なのだが、なぜ「握りしめ」ではなく「ニギシメ」なのかというと、ギューッと凝縮している感じがこの「ニギシメ」という4文字には集約されている。つまり断捨離の逆の状態の事だ。これも「カッコツケ」同様なのだが、とにかく自分の利得を専行し、提供するという精神がこの「ニギシメ」という状態にはない。とにかく「自分が、自分が」してしまってまわりが見えない。まさに地獄のお話に出てくる餓鬼そのものだ。息を吸うには一度吐かなくては入ってこないというのに、ずっと息を吸い続けて息が吸えなくなっているような情けない状態。なのだが、本人はいたって真剣なのだが、まわりがいくらそれを指摘したところで、この「ニギシメ」の状態をずっと大事に抱えてそれこそ死守しているような状態であり、そんな人生を送っている。実際、こういう人間はどこもかしこもでよく見かけるし、まさにこの「ニギシメ」の要素の強い人間を大衆と呼んでも間違っていない。まさに純度が低いというよりも、そこら中でこういう人生を送っている人間をよく見かけるので、それはまさに河原の石とそれほど変わらないように見える。

 そして最後の3つ目の「セコい」なのだが、2つ目の「ニギシメ」と何が違うのかというと、「ニギシメ」はもうそれこそ「自分が、自分が」ととにかく吸って吸って吸いまくる。という入力のベクトルにしか偏っていない事が特徴なのだが、この「セコい」というのは「ニギシメ」と似ているようで本質が違う。「ニギシメ」に関しては意識が自分にしか向いていないのだが、「セコい」人間というか人生を送っている人間は、自分の外側にも意識が向いている。そのため、自分のまわりの人間に非常にいやーな、もやーっとした黒い霧がかかったような、そんなもやもやしたものを提供しつつ、自分だけは得をするというような、浅ましさを与えている。それこそ「カッコツケ」や「ニギシメ」ほどお目にかかる事はないが、この「セコい」の度合いが強い人間と出会うと、こちらの生命力を奪われているというか、食われているような感覚に襲われるので、もしもそういう人間に出会ったときは、一目散に逃げることをおススメしたい。もちろん純度とはある種の同調とも言えるので、そのような人間が自分の目の前に現れたという事は、自分の現在の人生の純度を疑うべきという考えは間違っていない。

 そして、これらの人生の三大不純物について私が語ることが出来るということは、少なくともどこかの時期にこれらの人間を引き寄せるだけの人生の純度の低い時代があったという事を意味している。そして、自分自身がこれらの不純物を多く抱えていた可能性も否めない。もちろん前項で述べた「自分の内側の世界の"報酬"」と「自分の外側の世界の思考であり行為」の配線のつながりが、これら不純物の多い人間と関わりを持つことに合った可能性も否めない。

 もしも、あなたが不純物の多い人間に出会ったり、関わったりしてしまった時は同調すれば、それはまさにある階の階段の踊り場に停滞する事を意味し、逆にそういう人物を裁けば手痛い想いをすることになるだろう。そういう不純物の多い人物が現れたのであれば、自分の純度を疑い対話をするしかその状況を抜け出す術はない。その者たちは、ある意味「自分の内側の世界」を「自分の外側の世界」に投影しているに過ぎないからだ。それは、あなたのその時の人生の純度を投影しているという理解をしても間違っていない。

 別にこの章の最後にこの三大不純物の事を述べたのは、それらの強いもの達をDisるために、それこそ酒のつまみにでもするために述べた訳ではない。もしもあなたが、この世界のベクトルが「進化」という方向に向いていると思い、"設計者"がその「進化」というベクトルでこの世界であれ、人間を設計した意図を汲んで、"設計者"が設定したステージの先に進みたいと思うのであれば、お釈迦さまの到達したステージ、もしあるのであればその先にあるステージに進むことにチャレンジしたいのであれば、徹底的にこの不純物を取り去って、純度の高い純金の中の純金のような人生であり、生命のバージョンを手に入れない限りは、そのミッションというかチャレンジをコンプリートする事はできない。そして、しつこくなるが、その不純物を取り去る方法は、決して「自分外側の世界」にはなく、「自分の内側の世界」にしかない。だけど、自分の外側に現れる数々の現象は、自分の内側の世界をそれこそ如実に投影している。つまり自分の外側の世界を観察して、自分の内側の世界がどうなっているかを予測する。そして、自分の内側の世界とひたすら向き合い、対話を繰り返し、自分の純度を上げて、純度の高いバージョンの自分の人生を手に入れる。その不純物の除去に成功した時は、勝手に「自分の外側の世界」は変わっている。もちろん、純度の高い方向に。

 今回この本は"自分"を最大限生かすための人生戦略というタイトルで、その構成は「敵を知り己を知れば百戦しても危うからず」というこの孫子の兵法に重ねて、1章では敵<自分の外側の世界>を知る事、この2章では己<自分の内側の世界を知る事>をテーマにいろいろな事を考察したり述べたりしてきた。しかし、1章、2章と進んで結論として見えてくるのは、「自分の外側の世界は、自分の内側の世界の投影に過ぎない」という事が見えてきたので、結局は「自分の外側の世界」も、言ってみればそれは「自分の内側の世界」の一部だということになる。詰まる所、"自分"を最大限生かすための人生戦略というのは、いかに「自分の内側の世界」をしっかり理解し、コントロールできるのかという問題に集約される。それでは、最後の章である第3章では、「自分の内側の世界」をしっかり理解し、コントロールするためには具体的にどうしていくことが、"自分"を最大限生かすための人生戦略になるのかを私自身の経験と知見から論じてみることにする。もちろんそれらは、私が自分なりに得た結論であり、各自自分の人生における経験や知見と照らし合わせて自分なりの"自分"を最大限生かすための人生戦略をカスタマイズしていただきたい。