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原澤出版の執筆用ブログ

2:日本語の独自性について考えてみる

2:日本語の独自性について考えてみる

 

 それでは日本語についての独自性について考えてみることにしよう。日本語に一番似ている他所の国はどこの言葉なのだろうか。「漢字」という部分にフォーカスすれば中国であることは間違いないが、「文法」という部分においては中国よりも韓国やモンゴルの方が似ているのかもしれない。少なくとも英語やフランス語と日本語はやはり文字も違えば、文法も違う。

 このあたりから、大分ヤバめな空気というか芳香というかオイニーが立ち込めてくるのだが、まさにそのオイニーに頭をやられると持論過ぎてオナニーみたいな妄想話の方向に進みがちになり、ガチで危ない人っぽく暴走してしまう危険があるのでいかにその誘惑に飲み込まれないように、そこについてだけは皆に、注意が必要なのだが、それはどういう事かというと、

 

 今、我々が使用しているこの日本語も本当の日本語ではないのではないだろうか?

 

という疑問についてだ。「もしかしたら、この日本語になる前のもっと昔の日本語」のようなものがこの島国には存在していたのではなかろうか。という疑問については、正直なところ別に危険ではなく、むしろ疑うべき部分ではあるのだが、何故かこのあたりの事を研究している人は「日本神話」的な「自分の内側の世界」側のお話をあたかも物質的に変換せずに、そっくりそのまんま「自分の外側の世界」にスライドさせてしまう暴挙に出てしまう者が多かったりするので、非常に困りものなのだ。「神さまは概念ではなく実際に存在する説」を唱える一派の方達はこのような事を平気でやるし、だいたいそういう人たちの多くは、原始的な部分についてのお話をものすごく、魔法の世界があたかも過去には「自分の外側の世界」にあったかのようなトンデモWorldのお話にすり替えて、一太刀で頭のおかしい世界を創り、それこそ魔界に引き込んでくる。私が「オナニー的妄想」と言っているのはこの部分だ。思わず、そっちの世界に行きそうになってしまうが、それこそ、そこは行くの我慢して、自分の弱き心を打開しないかぎり、それこそ真実の世界の扉が開かれる事は無いのだ。

 それこそ『設計者』というこの世界を創った者というよりもおそらく宇宙原理のようなものだが、その『設計者』を冒涜しているだろうし、そこにはやはり道徳的なものを感じることが出来ないのだ。もし、そのような「神なる世界」のような世界が、何千年、何万年も昔に存在していたのであれば、それこそその世界は東京ディズニーランドを遥かに凌げる「夢の国」であっただろうけど、そんな事実があるのであれば、現時点でもこの「自分の外側の世界」は、ディズニーさまの「自分の内側の世界」のそれらの『概念』にすがることなく、この世界全体が夢の国そのものになっているはずであって、現実そうなっていないのだから、やはり「自分の内側と外側の世界の関係」についての仕組みについては、ガラスのコップを上空から落とせば割れるという物理法則と同じようにそこを無視したようなトンデモ理論を展開させたところで、なんら建設的な議論を生み出す事は無い。

 その「よく原始的な世界の話するとトンデモ理論に飛びがち」という危険性に注意しながら冷静に、

 

今、我々が使用しているこの日本語も本当の日本語ではないのではないだろうか?

 

 について考えてみたい。やはり、今現我々が在使っている日本語とは違う日本語の存在があったことは間違いないだろう。そもそも漢字は「漢の字」なのだからこれは中国さまから来た文字な訳でして、「日本字」というか「大和字」ではない。そういう漢字がやってくる前に日本で使われていた文字の存在を「カタカムナ文字」とか言うのかもしれないが、こういう部分を追いかける人の多くは先ほど述べた「自分の内側の世界」と「自分の外側の世界」の関係を無視する人がそれこそ頑なに追いかけていずれ例の魔界に引き釣り込まれ、当初の素朴な探求心もいつの間にか形無しになる人達が多いので、個人的にそれらのお話に対して多少アレルギー反応を示してしまうが、果たしてそのあたりの真実がどの程度のものなのかはそれこそ議論百出状態で、それこそそれらの内容はまさに玉石混合状態なので、「自分の内側の世界」の仕組みからすれば「自分が信じたいものを思わず信じてしまいがち」という言ってみれば、依怙贔屓大好き自分アンテナのようものがそれこそ、バイキング方式のビュッフェに行った時のような「好きなものだけ取って食べる」状態に陥ってしまうので、それらの情報を鵜呑みにして過去の日本の文字がこうだったので、大和魂とはこうだなどという論述をすれば、それこそ読者を騙していることになるし、読者以上に自分自身を騙し、それこそ虚しい自慰行為をしているだけになってしまい、それこそ何者かからの慈悲行為も受けることが出来なくなってしまうだろう。

 さて、遣隋使や遣唐使といった中国大陸側に文化を学びに行く前は「漢字」的な感じの文字はなかったと考えるのが妥当だろうし、ひらがなやカタカナも、漢字を崩して作ったものなので、漢字が日本にやってくる前の時代は、それほど漢字ナイズされていないそれこそ、今以上に日本純国産の文字が存在したことであろう。

 文字における歴史は、「今使っている文字とは違う歴史」があることは間違いないとして、では「文法」においてはどうであろうか。よく学校で「古文」的な勉強をするが、あれら古文の読み方は、今の日本語の文法と違う部分がある。

 そこでそれこそ適当に日本語の事を調べてみると、(そもそもこんなものいくら本気で調べようがドラえもんがタイムマシンでも出してくれるか、デロリアンにでも乗ってバック・トゥ・ザ・フューチャー出来ない限り、それこそ紅白対抗憶測合戦の域を越えられないので)とりあえず、考えてよいコンテクストはどこかというと、話し言葉と書き言葉はそもそもが違うという歴史がある。という部分だろう。このあたりも調べてみると文語体だの口語体だのそれらがイコールであるとかないとかとんでもなく面倒くさい議論が行われているので、この本の中では「話し言葉」と「書き言葉」ということで考えてみると、古文的な文章が通常の「書き言葉」として使用されていた時代は「書き言葉」と「話し言葉」には大きなかい離があったようで、どうやら明治時代に言文一致運動的な事が起こり、この「書き言葉」と「話し言葉」のかい離がなくなってくっついたような形になったらしいのだ。もはや明治時代であれば「らしい」ではなくまあそうなのだろう。それまでは、「書き言葉」という日本語と「話し言葉」という日本語、見方によっては二種類の日本語があったということになる。

 おそらく飛鳥時代であろうが平安時代であろうが、もしも我々がタイムスリップしてその時代に行ってしまったとしても「話し言葉」であれば同じ日本人なので、会話をおそらく成立させることは出来るような気がするが、これが「書き言葉」の方になると我々にはまったく理解できない可能性がある。そう考えると、昔の日本語から消えた要素は「書き言葉」側であるという事が言えるだろう。

 もしも、日本語そのものから大和魂が消えてしまった可能性を考えるのであれば、「書き言葉=大和魂」という事になる。もちろんそっくりイコールではなかったとしても、その要素が非常に強いという事になる。誤解の無いようにしつこくすると、現時点ではあくまでも可能性を探るだけであり、それが正しいかどうかは分からない。あくまでも仮説を立てて述べているだけなのだが、では我々が古文と呼んでいる昔の時代の「書き言葉」の中に大和魂の要素が多く含まれているかどうかについて考えてみよう。

 この仮説については、先ほど昔の日本には「話し言葉用日本語」と「書き言葉用日本語」があったので、この「自分の外側の世界」における日本は、果たして「書き言葉用日本語」によって創られたものであるのか、「話し言葉用日本語」で創られたものなのかを考えてみたいのだが、例えばこんな問いを立ててみてはどうだろうか。その問いはどういう問いかというと、

 

 今の時代ではもう作ることが出来ない日本の独自性の出るモノって何か?

 

 という、このあたりの事を考えてみれば何かが見えてくるのではないだろうか。寺であれ神社であれ昔の時代の割には今の時代に同じものが作れるのだろうかという我々日本人ですらその魅力にやられてしまいそうなものが日本には存在しているような気がする。外国人達が日本に不思議な魅力を感じるのもそれらのもの達ではないのだろうか。これらを我々現代の日本人が作る事ができるのかと考えると、おそらく「作れない」ような気がする。今の時代においても優秀なデザイナーであれ、クリエイターは日本人の中に多く存在するが、それらに「純日本的な何か」を感じることは非常に難しい気がする。どちらかというと「世界と日本のかけ合わせ」的なそのような不思議なバランス感覚が世界から見たらウケているだけであって、「純日本的な何か」を生み出している事で賞賛を得ているようにはあまり思えない。

 そうすると、我々現代の日本人が使用している日本語というのは先ほどの「言文一致」している「合体日本語」的な日本語によって創られる『概念』であり、その『概念』をこちら側の世界に投影させているので、もはや飛鳥時代であれ平安時代におけるそれこそ「より日本的な」テイストの世界を投影することも出来ないし、投影することが出来ないという事は「自分の内側の世界」でもそれらを創りだすことがもはやできなくなっていると考えてよいだろう。そしてその理由は「何かが失われたから」であって、この「日本語の変遷の歴史」の中で消えてしまったものは、昔の時代の「書き言葉」だということになる。

 「話し言葉用日本語」は歴史と共に変わってきたことはあったとしても消えたわけではないので、それこそ「魂」としての継承は過去の日本人から、今の日本人に継承されたと考えてよいだろう。しかし、「書き言葉用日本語」が消えてしまった現代においてはなにかしらの「日本の魂」がどこかで消えてしまった感は否めない。それらについては、昔の時代の「書き言葉用日本語」を研究し、この「書き言葉用日本語」がその時代の日本という世界においてどういう影響を与え、「自分の外側の世界」にどのような日本的世界を投影することが出来たのかを考えてみる必要がある。

 個人的な予想としてはやはり伝統的な日本を象徴するそれらの者たちは、どちらかというと、「話し言葉用日本語」で創られた世界ではなく、「書き言葉用日本語」によって生み出された『概念』が、「自分の外側の世界」に投影されている気がしてならない。極端な例を一つ挙げれば、東京スカイツリーのというかあの成り立ちは、もしも「書き言葉用日本語」の世界観で『概念』が創られ、こちら側に投影されていたとしたら、あのような見てくれにはならなかったと思う。あの東京スカイツリーが日本的なのは高さの数字が634mというところぐらいしか見当たらないのは私だけだろうか。無駄にDisりすぎているかもしれないが、東京スカイツリーを見て私は「大和」も「武蔵」も感じることが出来ない。反対に、東京都内には実際に建っていない東京ディズニーランドからは「Tokyo」を感じることは出来る。もはや、今の時代の日本は「大和」というよりも、「Japan」側に寄っている気がする。

 ただし、「書き方用日本語」が今の時代の中で、ほぼ使われていなかったとしても、「大和魂」のすべてが絶たれている訳ではないし、我々日本人がこうやって大和魂の研究をしようという気持ちがそれこそDNAレベルで刻み込まれているのであれば、その現実こそが「まだ我々日本人の中の大和魂は死んじゃいない」という事を物語っている。