harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

6:日本食という大和魂について実験した西洋人のお話

6:日本食という大和魂について実験した西洋人のお話

 

 『西洋』が日本に入り込んだ歴史を調べていると、一人のドイツ人の医者がやたらと登場するのでそのドイツ人の事を調べてみた。そのドイツ人の名前は、エルヴィン・フォン・ベルツという明治時代に日本に招かれたお雇い外国人の一人のようだが、彼の考えや発言を見ると、『西洋』だから高周波的で早い安いうまい的なチープな世界観を押し付けるものではない事が分かる。それこそ、「伝統」を重んじる大切さを説いている洋の東西を意識させない思想の持主なのであろうことがベルツ本人の発言からして窺える。

 私自身、もちろんワイン一つとっても『西洋』が何事においても雑で無機質なものを創り出していないことについては存じているのだが、それこそ医学の世界では、悪い部分があればその悪い部分をどうにかするという「結果に対してなんとかする」という手法がやはり『西洋』的であって、東洋の考えは、「結果」に対しての原因であり過程との対話により処方を考えるという手法と比べるとやはり、『西洋』のそれらというのは「結果」にコミットする価値観から創作された世界であることは否めない。

 とは言え、このベルツという人間は、調べている限りでは『西洋』的ではありながら、「過程」をしっかり大事にした上で物事の分別をしっかりと吟味できる人物だった事は間違いない。むしろ、ベルツの発言を見ている限り、『西洋』という新しいそれらを目の当たりにして、自分を見失い浮足立ってしまったのは日本人であるお前たちの方で、その姿が非常にみっともないし、情けないというような苦言を呈し続けている気がしてならない。ベルツの主張には何よりも「それぞれの伝統を重んじる事」。その土台があってこそ、の異文化交流である事を訴え続けている。「受け入れるのは良いが、魂まで投げ打ってまでして取り入れてしまえばそれは奴隷や傀儡と変わりはしない。」という事をベルツは述べている気がしてならない。

 そう考えると、『西洋』に対して、我々日本人が無駄に尻尾を振りだしたのは何も戦争に負けて逆らうことが出来なかったからではなさそうだ。個人的にこれに似たような事をサッカーの世界でそれこそフラクタルな関係として見たような気がする。「スペインの真似事をして日本も世界一になれ」というような馬鹿な指導者がいるが、まさに歴史上で、日本が『西洋』にかぶれてブレブレになったその歴史とまったく同じことを発言しているのだ。歴史から学ばない人間、歴史から学べない人間というのは非常に恐ろしいものがある。

 そういった日本という伝統を無視し、ただひたすら『西洋』に尻尾を振る売国奴的な発想の持ち主達は、「民族」というコンテクストが完全に抜けていて、そこに存在する「伝統」から練り上げて作られる「魂」というものの存在を知らないようだ。だから、簡単に自分の生まれた土地の「魂」を安売りして、「我々も『西洋』の真似事をして世界のトップクラスに立とう!」というような恥ずかしいキャンペーンを声高々とし始めるのだ。

 正直なところ、「伝統の安売り」的な事は個人的には戦争よりもやってはいけないようなことがしてならない。言う事も許されない位の話のような気がしてならない。もちろん法律上、自由の範囲内にあるので言う事は自由なのかもしれないが、「結果が出るのであれば、日本人としての誇りなんて捨てちまえ。」みたいな、そういうことをよく公衆の面前で言えるなと個人的には呆れてしまう。

 何度も誤解の無いように述べるが、「『西洋』のものなど取り入れるな!」という鎖国主義的な意見を述べている訳ではない。しかし、「大和魂」という日本の伝統的な土台まで捨てて、『西洋』人ごっこをしてそれによって結果が出たとしてもそれは日本人が素晴らしい事を証明したのではなく、「日本人は猿真似がお上手」という事を証明しただけに他ならない。そんな猿真似の為に、自分の有限なる人生を費やしたいとは思わないし、そのような事を偉そうに主張する者たちを私は指導者だとは思ってもいない。

 さて、そのような百円ショップ並みの安さで、日本人としての魂を安売りする連中の事はさておき、日本の伝統を大事にするよう主張したドイツ人・ベルツが行ったある食事の実験についての話を取り上げてみたい。

 ある車夫が長距離を何度も馬を乗り換えて進んだ時間と同等の時間で人を運んだのだが、車夫に何を食べているのかと聞いたところ、玄米、梅干し、大根の千切りのみそ汁、たくあんだけだったという。そこで、ベルツは、肉を与えたらどれだけ凄くなるのか思いと肉を食べさせてみた。肉食に変えたところ、すぐに根をあげてしまい、元の食事に戻してくれと訴えて来た。元の食事に戻すとまた元気に引っ張れるようになったという話なのだが、ここにも「日本食の凄さ」というものが垣間見える。

 この話だと、肉食は何も良いところがなさそうなのだが、おそらく瞬発的な力を発揮するのは肉食なのではないだろうか。ここでまた「瞬発的(≒高周波的)」と「持続的(≒低周波的)」な世界観が見え隠れしている気がしてならない。もはや日本人というコンテクストは、低周波的な生き方をしているのだから、肉食といった「瞬時の結果」を出すようなある種の高周波的な食事をとれば、パワーも出なくなるし、持続力が失われてしまうのは当然の事ではないだろうか。やはり、日本人にはそれこそ低周波的ともいえる玄米であれ、菜食のような食べ物が、力が日本人的なパフォーマンスとして出ると考えて妥当だろう。それこそ、日本人であればなおさら「結果」ではなく「過程」を考えた上で、その過程の中身に、エネルギーであれ、メッセージを込める必要があると考えてよいのではないだろうか。たしかに、『西洋』的な考えからすれば、面倒くさいだろうし、何も考えずに瞬時に届く『西洋』式は労力のようなものがなく、あるコンテクストにおいては非常に効率的な事は間違いないだろう。

 ただし、それは日本人的ではないし、折角我々に搭載された「大和魂」ならではの備わっている特別な機能を捨てて、『西洋』的なエンジンの真似事をしているだけに過ぎないと言えるだろう。やはり日本人特有に備わった機能を使ってこそ、使いこなせてこそ、世界を本当の意味で驚かせることができると考えるべきだろう。それは政治の世界においても学問の世界においても、スポーツの世界においても、その他すべてのジャンルにおいて同じことが言えるだろう。

 さて、では「日本人は農耕民族だったのだから肉なんて食わずに米を食え」という考えに落ち着けばよいのかというと、「いやいや、稲作なんてどっちかって言えば最近の出来事で、その前は日本人だって肉食ってただろうがよ。」的なツッコミが来ることは否めないし、そこについても考える必要がある。なんとなく調べてみればやはり原始的な時代はそれこそ「人間達が何かを作って食べる」などという頭の良い事をしていなかっただろうから、そこらへんにあったものを採ったり、獲ったりして食べていたことは間違いないだろう。

 また、ここでは「食事」についての考察になっているが、それこそ「食事」とは「結果」なのだろうか「過程」なのだろうかと考えれば、これはどこまでの幅を捉えて考えるかによっても変わるが、たとえば「生活」というコンテクストで考えた時、「食事」とはひとつの「結果」にも見えるし、「過程」にも見える。それはどういうことかというと、「何を食べて」というここだけで日本人がどうこうとか大和魂がどうこうとか考えてもあまり意味がないのではないだろうか。何故、食べるのか?それは活動するために食べていると考えてよいのではないだろうか。先ほどの車夫の話にしても、彼はとんでもない距離、とんでもない時間を人を載せて人力車を運ぶという仕事をしている。この活動においては、彼がしていたような菜食が力を発揮するのであって、我々現代人的な生活をしている人間が、同じ食生活をしたところで日本人特有のパワーが発揮されるかと言えば、まず発揮される事は無いだろう。「日本人的な食事」にするのであれば、「日本人的な活動」も心がけない限り、「大和魂」が持つ本来のパワーなど発揮されることがない。菜食だけして、デスクワークしていたところで健康になどなる訳がない。

 ベルツの車夫の話は、「車夫」だからこそそういう結果が出た訳であって、我々現代人に同じ結果が出る訳がない。と言いたいところだが、そうでもない実験結果などがある。俗に言う「カーボローディング」と言われるようなものだが、実際のところ時代が経つにつれて食べ物自体の質が変わってしまったため、もしも「食べ物」で「大和魂」を発動させるには非常に難しい時代になっていると考えた方が良さそうな気がしてならない。

 というのも、おそらく昔の日本人が食べていたニンジンやジャガイモは、我々の知っているニンジンやジャガイモと違うような気がするし、米にしてもその時代の米と今の時代の米は違うだろう。それらのすべてを戻して、「良き日本を」などということをすれば、車に乗る事をやめ、それこそ機械を使わずに農業をして生活しろという事になる。これが間違っているかどうかは分からないが、やはり古い感じがしてしまうのは、すでに私自身が『西洋』にかぶれている証拠なのだろうか。

 もしも、この先五十年後、百年後どういう文明になろうとも、日本人には「大和魂」というエンジンが備わっていて、そのエンジンを発動させなければ面白みがない。という考えについては私の考えは変わる事は無いのだが、社会が進化していく上で、原始的な活動を一辺倒に推進していくというのもそれこそ「だったらお前はこんな時代に生まれずに、原始時代に生まれて生きてりゃいいじゃないか」とDisられそうなので、「今の時代における大和魂を発動させる生き方とはどういう生き方なのか」という問いに対する建設的な答えを見つけ出すことが、この「大和魂の研究」というテーマであーだこーだと考えたり、述べたりすることにおいて建設的な営みなのだと考える。

 そうすると、ちょっと意識しただけで取り戻せるものもあるし、時代が進みすぎて取り戻せないものもある。「食事」に関しては、もう時代が進みすぎてしまって昔のよきものを取り戻すことはほぼ不可能に近いレベルで難しいと考えてよいだろう。そもそも米やジャガイモを日本人が今現在どのように作っているかと言えば、農薬をばら撒いて機械を使って作っているところがほとんどなのだから、もはやそうやって作られた穀物であれ野菜を食べたところで、日本人らしいパワーが我々に備わるのかと言えばなかなか怪しいところなのではないだろうか。なので、今の時代において「食事」の部分で気を付けることは「自分は何を食べると力が出るのか出ないのか」という事を、客観的に自分で自分を観察して、知っておくことが一番大事な事なのかもしれない。もちろん、日本的な「お百姓さんに感謝」的な「この食べ物をつくる過程そのものを食べる」という目に見えない食事をする事は、日本人であればここを意識する事は音に倍音的なエネルギーが込められていたのと同様、なんらかの見えないエネルギーが、我々日本人は取り入れることが出来るようになっているだろうし、それが「日本人性」であって、「大和魂に備わっている特殊機能」との部分だと私は推測している。

 日本語という言語であれば、そこに機械であれ効率的であるかどうかという要素は排除して、昔の日本語としてのパワーを取り戻しところで、生活が原始的な生活に戻る事は無いが、食事に関しては昔に戻そうとすると生活自体が原始時代っぽくなってしまう。それらを体験する事は非常に大事だとは思うが、生活そのものを原始時代に戻すのはやり過ぎだと思うし、それこそ日本も世界の一部なのでそんなことをしたらそれこそ世界の笑い者にされるだけだろう。とは言っても、日本の歴史であれ、「伝統」を重んじることは、大和魂の発動を促す必須要素であることは間違いないので、物質的にそれら日本人らしい食べ物を日本字らしく作って食べることが難しかったとしても、「自分の内側の世界」では日本人らしい食事を心がけることは非常に重要な事だろうし、私の主張では、「自分の内側の世界」がこちらの「自分の外側の世界」に投影されていると考えているので、「自分の外側の世界」の食べ物であれ、文化が日本人的でないのは、「自分の内側の世界」が日本人的な世界観であれ、概念が薄れている事の証拠なので、基本的には、外側の物質に意識を向ける事よりも、内側の概念であれ情緒的なものに意識をむけて日本人らしい世界を「自分の内側の世界」に想像して生きていれば、「自分の外側の世界」に関しても、今の時代におけるパーソナルベスト的な「大和魂」の発動ができるように、魂の純度は高まっていく事だろう。もしも、食事に関わらず、「自分の外側の世界」が『西洋』にかぶれてしまっている事に気付いたのであれば、それは「自分の内側の世界」が、『西洋』にかぶれてしまっている事を意味すると考えてみてもらいたい。それを意識するだけでも、我々は「大和魂」を自分の内側、外側両方の世界に取り戻すことが出来るはずだ。

 大事な事は「どうやっても時代に逆らわないと難しい事」と「受け入れる必要がないのに油断して受け入れてしまう非日本的なもの」の区別を自分なりに意識して考えて、何を選択し、何を選択しないかという自分の人生のコントローラーを自分で握り続けることが最重要であることは民族の違いに関係なく、人間に共通して言える事なので「日本人」の下には「人間」という土台が地層のようになっているのだから、まず「人間」としての土台、その上に「日本人」という土台。そしてその上に「自分の人生」という建物が建っていることになる。ここのそもそも人間の仕組みに関してあーだこーだ言ったところでこの仕組みを変えることはどだい無理なのだろうから、人間として生まれてきてしまった以上共通の課題には目を背けずに向き合いつつ、「日本人」という「大和魂」という特殊なエンジンの搭載されている乗り物を乗りこなすことが出来れば、次第に自分自身に偉大なパワーが発揮されて、さまざまな不可能を可能にすることが期待できる。そういう生き方を私はもっとしてみたい。

5:西洋が入ってくる前の日本との対話をしてみる

5:西洋が入ってくる前の日本との対話をしてみる

 

 前項では日本の言語まわりから「大和魂とは一体何なのか」を探り出すというか炙り出してみたのだが、個人的にはなかなか良い線をつけた気がしてならない。「大和魂」とは低周波的であり、表現に倍音を内在させるひと手間加える的な要因があることを確認することが出来た。私自身、『大和魂』の中に含まれる要素としてこの「ひと手間かける」というか「何かしらの工夫」のようなものがある気がしてならない。そしてそれらは、西洋のそれらのようにそれをパッと見ただけでは、パッと聞いただけでは理解できない、なんらかの深み的要素があるような気がする。それはスローだからこそ確認できる何かしらの対話した後であったり、何かと格闘した後に確認できる汗のようなもの、そこに『大和魂』が集約している気がしてならないのだ。

 日本とそれ以外の国の違いは何なのだろうと考えてみればやはり開かれた土地であったか、閉ざされた土地であったかという部分があるだろう。つまり日本はある意味非常に「有限的な世界」だったということだ。その中で、領土として限界が来た時、日本人は日本人的創意工夫によって、この日本的なる世界を創造していったと考えてよいだろう。

 さて、この項は『西洋』が入ってくる前の日本について考えてみたい。『西洋』が入り込んできた分岐点のような時代は、簡単に言えば三つあるような気がする。一つは社会科の歴史の教科書に照らし合わせれば、フランシスコザビエルが日本にやってきたあのあたりであり、二つ目は明治維新あたり、そして三つ目は大戦で敗戦後にアメリカ様が日本を統治したあたりだ。その三つの時代で西洋が、日本に入り込んだ時に導入されたものはなんなのかを「大和魂が衰退した理由」として何かしらのヒントを見つけ出すことが出来ないかを考えてみたい。

 まず一つ目のフランシスコザビエルだのルイスフロイスだのといった宣教師達が日本にやってきた時代の事を考えてみると、あの時代に入ってきた大きな西洋的要素は、キリスト教と鉄砲ではないだろうか。それまで日本にはキリスト教などという宗教は日本人の「自分の内側の世界」には存在することがなかった。簡単に言えば「天使」という概念はそれまで我々日本人の中には存在していなかったという事だ。「隠れキリシタン」などという言葉があるが、日本人の民を統治する者達は、キリスト教を恐れた。中にはキリシタン大名的な存在もいるが、豊臣秀吉であれ、徳川家康キリスト教が広まる事を恐れた。織田信長に関しては、キリスト教をそれ程恐れていないような印象を受ける。それこそ、織田信長自身がキリスト教的発想の持ち主だったのかもしれない。ただ単に、それまでの日本の宗教をあまり好き好んでいなかった可能性もあるが、そこに関しては織田信長本人に聞いてみないと、実際のところはよく分からない。

 とは言え、織田信長は『西洋』を受け入れる事に積極的な思想の持ち主だった気がしてならない。それこそ「これまでの日本をぶっ壊して、あたらしい日本を創りたかった」ようにも思える。そして、それは人体の仕組みとして起こるホメオスタシスのような作用が、日本という1つの生命体の中でも起こったのではないだろうか。織田信長が死んだ後は、豊臣であろうが、徳川であろうが、『西洋』を取り入れることをそれ程積極的に行わなかった事実があり、家康の孫の代では「鎖国」と称されるように、『西洋』を取り入れることを反対に積極的に閉じる方法に進んだのは、歴史が示している通りだろう。

 まず、『西洋』の宣教師たちはなぜ、彼らの国から見てみればこんな最果ての地までやってきたのだろうか。日本をどのように見ていたのだろうか。おそらく、彼らは日本を植民地化しようと考えて妥当だろう。その後の歴史を見ても『西洋』がアメリカ大陸であれ、アフリカ大陸であれ、アジア地方の国々を植民地化している事実からすれば、日本とだけ仲良くお友達になろうなどという発想は考えられない。むしろ彼らは肌の色が白くなければ自分たちと同じ人間ではないぐらいの考えでいたと考えるのがそれこそ妥当だろう。そうでなければ「植民地」という言葉というか世界観自体が「自分の外側の世界」に投影される事は無いからだ。そう考えると、通常の日本人で、しかも天下統一するような大物であれば、『西洋』というウイルスが日本という体内に入り込むのを拒もうとするのは自然な反応のような気がするし、どういう理由かは分からないが織田信長だけがブッ飛んている気がして、それこそ一番怖いのは、外部からの侵入よりも内部から崩壊してくことの方が恐ろしさを感じるのは私だけだろうか。そして、徳川家康が最終的にこの時代の覇者になったのも何か日本的な低周波的な見えない何かに内在するエネルギーの強さのようなものを感じずにはいられない。見方を変えれば、日本に愛されたのは、織田でもなければ、豊臣でもなければ、徳川だったのだから。それこそその前には今川だの武田だのいたのに、この時代に愛されたのは徳川であり、徳川の時代は約260年も続いた。またこの江戸時代という世界から見たらおそらく不可思議な世界観を醸し出していた時代こそが、日本を日本たらしめる低周波的なゆっくりと日本という国を熟成させる期間だったのかもしれない。そもそも江戸自体の前の時代は日本の中にいくつもの国があって、日本人同士が殺し合って領土を奪い合っていた時代なのだから、それらが1つの「日本」という国になって、まとまっていくためには『西洋』なんてものに入り込まれたらそれこそ、日本という国の独自性は今現在のようにまとまらなかった可能性が高い。アメリカがイギリスっぽくないのと同じで、なんだか雑種っぽいよく分からない国が出来上がってしまった可能性が高いし、そもそも今の時代の日本は、多少なりとも雑種っぽい雰囲気を醸し出している。

 そういう意味合いにおいて、良くも悪くも、そしてたまたまなのかもしれないが、日本が日本として引きこもっているこの時間は、非常に貴重な時間だったような気がしてならない。もしかしたら、日本が鎖国をしていなければ、日本の領土は今とは全く違うもので、それこそ世界の覇権を握っていた可能性もなくはないのかもしれないが、その場合は、完全に日本人は「大和魂」を捨てて、ただの強欲な世界の覇者に成り下がっているだけの可能性が高い気がしてならない。もちろんそれを成り上がりと解釈することも出来るのだが。

 しかし、「日本人性」という観点で考えれば、今の領土のサイズと、日本という独自性を大事にする民族として生きることが望ましかったような気がするし、それが良くも悪くも「日本人らしい」生き方のような気がしてならない。そもそも日本人が国を奪って領土を広げていくという生き方に向いていない気がする。それは、言語の構造からしてそれらが窺えたように、言語だけでなくその他のコンテクストを踏まえて考えても、日本人というのは鈍行列車を楽しめるだけの情緒の豊かさを持つ民族なのだから、『西洋』のような世界支配ゲームに参加するよりも、日本という国の中で、「自分の内側の世界」の豊かさを目一杯楽しむ生き方を存分に味わうことが日本人としての幸せのような気がしてならない。それこそ、『西洋』かぶれしようとした日本人達にそのあたりの事をどう考えていたのかを聞きたい。ある意味の戦犯はその「大和魂」を売って、『西洋』の真似事をしようとした者達なのではないだろうか。とはいえ、その「自分の外側の世界」の豊かさよりも、「自分の内側の世界」の豊かさを味わう民族を、『西洋』がそうっと見守ってくれるかどうかというと、それは別問題だし、『西洋』的に考えれば、大人しくしていてもいつの間にかガブリとやられてしまうのが関の山なのだろうから、日本が『西洋』にかぶれようとしてみたり、好戦的になっていたのもそれはそれで必要な事だったのかもしれない。

 しかし、今の時代においては相当の事がない限り、日本が『西洋』にかぶれることなく、日本人らしさを追求する事でミサイルを落とされることはないので、もう一度『西洋』が入り込む前の「日本」を思い出してみて、やはり日本人としてのパワーが最大限出るような生き方であり、「大和魂」という国産のエンジンを搭載して日本人が日本人らしいパフォーマンスを発揮して、日本人の独自性がもっと発揮できるような生き方を見出すべきだと考える。そもそも『西洋』の宗教観ではない我々日本人が、『西洋』にかぶれたところで、なんだかよく分からない世界が創られるだけだろうし、そもそも、その奇妙な世界観を、日本の外側の国の人間達は面白がるかもしれないが、それは自分たちの発想とは違うなんだかへんてこな世界観が浮かび上がる事を面白がっているだけで、それほど彼らはリスペクトなどしていないのではないだろうか。

 もしも、本気で「『西洋』の者たちよ、どうだっ、これが日本だ!」と一発パンチラインをかますのであれば、もう「日本100%」を見舞うしかない気がしてならない。それこそキリスト教の伝統のない日本人が、いくら天使がどうこう的な世界観を創り出したところで刺身にケチャップつけて食べる奇妙なジャンクフードが出来上がるだけだ。またアマテラスオオミノカミやらコノハナサクヤヒメをキリスト教の世界観で描写したところで、なんだか醤油臭い西洋料理が出来上がるだけかもしれない。

 混ぜ合わせると力を発揮するものもあるが、混ぜ合わせることで微妙なパフォーマンスしか発揮しないものもあって、少なくとも「魂」という存在は、何かと何かを混ぜ合わすような事をしてはそれほど力を発揮できないような気がしてならない。

 しかし、日本は明治維新あたりで完全に『西洋』にかぶれだす。伊藤博文においては「今日の学問は全て皆、実学である。昔の学問は十中八九までは虚学である」と言ったようだが、ある種第二の織田信長登場と言っても良いような発言だ。織田信長はこんな卑屈な事は言わなかったかもしれないが、「日本の伝統」に関しては何も価値がなかったかのように捨ててしまうかのような発言だ。日本の近代化に向け一役も二役も買っているのだろうが、やはり日本という生命体は、伊藤博文織田信長同様にホメオスタシスしてしまったのかもしれない。事実、伊藤博文は暗殺されてしまっている。日本という生命体の意志はやはり日本というあの島国こそが自分自身なのだという主張をしているようにも見えなくもない。そして、日本という生命体そのものが『西洋』にかぶれたいと思っているように見えない。それこそ、日本語の母音に込める倍音メッセージではないが、日本という生命体に耳を傾ければ、この日本という島国が何を望み、どのようなメッセージを発しているか、それこそ我々日本人であればそのメッセージを聞き取ることが出来ると信じたい。

 「大和魂」とはその日本という生命体の声を受信する目に見えない内臓と言っても良いかもしれない。そして、我々も「大和魂」という発信機によって日本という生命体に語り掛けることが出来る。そこに『西洋』的なものが混ざれば、雑音だらけで聞き取ることも出来なければ、もはやそこにチャンネルを合わせる事すらできず、「大和魂?何それ?」という事になってしまい、ただの『西洋』かぶれした高周波的な「日本」というコンテクストにそぐわない何かの猿真似的なそれこそ二番煎じ的な魂でしか生きることが出来なくなるだろう。もちろん、それらを選択するのは本人次第だが、私個人としてはせっかく日本人として生まれてきたのだから、純日本的な生き方を追求した上でこの世界を味わいたい。そうでなければはじめから『西洋』の国に生まれてくれば良かったのだから。日本の外側の何かを取り入れる前に、まず日本式のそれらを徹底的に学ばない限り、何をやったところでその目に見えない皮膚はかぶれてしまう事になる。

 しかし、そもそも日本の教育が「大和魂を学べ」という内容のものではなく、すでに『西洋』にかぶれてしまっているので、それこそ三つ子の魂百までもではないが、今の時代の日本人の多くは、かぶれているのではなくはじめから『西洋』っぽい生き方をしているので、もはや我々は日本人なんだか何人なんだか分からず、とりあえず日本語をしゃべってる『西洋』っぽい生き方している人間みたいな括りになってしまっている可能性は高く、過去の時代の日本人達が私たちを見た時に我々を見て喜ぶのか、憂うのかそれとも嘆くのか。やはり先輩たちは我々に対して「日本人としての誇りを持て」と説教してくるような気がしてならない。もちろんその「日本人としての誇り」の中身も各時代によって込められているエネルギーは違うとは思うが。

4:ボインとhigh and low、倍音にRide on野郎、死因はアイアンクロー

4:ボインとhigh and low、倍音にRide on野郎、死因はアイアンクロー

 

 どっちの味方かなんて関係ない。この勝負がおもしろくなればそれでいい。というある超人の名言がある。そう考えた時、もうどっちの読み方なんて関係ない。そこの場で押韻できるのであればそれでいい。という精神を私は忘れたくない。それによってこの本の品位が著しく下がったとしても、強引に踏んでいきたいし、そこは貪欲に行きたい。むしろその精神にも「大和魂」は内在していると信じたい。そして金字塔を打ち立てたい。そして自らの手で切り開きたい新時代。

 さて、ようやく温まってきたところで、前項では言語の周波数という観点から、大和魂の重要な要素として1つの仮説を立ててみたのだが、今回も音に関するコンテクストから大和魂の要素を見つけ出してみたい。それは、以前から私が気にしていたある「音の秘密」のような話がある。それが倍音だ。

 とりあえず、倍音とはこのような辞書で調べてみると、

 

倍音

上音の一。振動体の発する音のうち、基音の振動数の整数倍の振動数をもつ部分音。ハーモニックス。

 

 という説明なのだが、正直なんのことだかよく分からない。基本的には鍵盤で叩く「ド」の音の中にも「ド」だけではなくさまざまな音が入っているというのが音の基本であって、ひとつの音に聞こえるようでもそれらの音の中には、複数の音が入っているし、入れることも出来る。ここと倍音が関係がある。

 たとえば「し」という音だが、日本語で「し」という音の意味は、「死」であり「師」であり、「詩」というものがあるが、「しをかく」といった場合に「死を書く」とは言わないし、「しをかくごした」といった場合に「詩を覚悟した」とは聴こえない。もちろん文脈上の意味もあるかもしれないが、「死」の時に発する「し」と、「詩」の時に発する「し」は違う。これは何が違うのか「音に表情がついている」のだ。日本語はこの「音に表情をつけることができる言語」といえる。それに対して西洋の言語は音に表情をつけることが出来ず、もしも言葉を強調するためには音量をコントロールする方法しかない。言ってみれば「凄み」的なものを日本語にはつけられるが、

西洋の言語には「凄み」をつけることが出来ない。

 そこに関わってくるのが「母音」と「子音」なのだ。日本語は母音がメインで使われている言葉であることに対して、西洋の言語は子音がメインで使われている言葉であるため、ここにそれぞれの言語の性質の大きな違いを見つけることが出来る。それはまさに「大和魂の要素」とは何かという秘密に迫ることが出来る一要因を見つけたことになるのではないだろうか。そして前項の低周波の日本語、高周波の西洋語というこの関係とも一致しているのではないだろうか。

 西洋人達の発音は口を大きく開けて発生するため、顔の表情が豊かに見える。それに比べて日本人の発音は口をそんなに大きく開かないため顔の表情が乏しい印象を与える。これが何を意味しているのか?それは西洋人の発する言葉の音には表情がなく、日本人の発する言葉の音には表情があるという事を物語っているとも言えるのだ。

 それはどういう事かというと、西洋の言語は子音がメインになっているため、子音に倍音によって表情をつけることができない。しかし、日本語は母音がメインになっているためそこに倍音をのせてさまざまな音の表情を作り出すことが出来る。ここに日本語と西洋の言語の違いを見出せる。

 そして、現在の発声法は日本式の発声方法ではなく、西洋式の発声方法を取り入れる傾向にある為、音に表情をつけるのではなく、音量によって言葉を相手に届けるやり方にシフトしてしまっている感がある。それは日本語の構造的に不適合な発声法であり、発声というものは呼吸の仕方にも直結しているので、ここに「大和魂」を我々が失った要因を見つけることが出来るのではないだろうか。

 例えば、若者たちは演歌を聴かないし、興味もそれほど持たないだろう。やはり民謡であれ、演歌であれ「日本的な音楽」を感じさせるそれらの音楽は、倍音を意識した音楽が多く、時代が進むにつれて西洋的な倍音をそれほど意識しない音楽が浸透し、そして日本人の音楽そのものも西洋化している。ここにも「音の咀嚼」という要素が関係している気がしてならない。つまり、西洋の音量のコントロールだけの音楽は、音を咀嚼する必要がなく、日本の音に表情をつけているそれらの音たちは、出す側にとっても入れる側にとっても「音の咀嚼」を必要とするのではないだろうか。

 ここでひとつ仮説として立つのは、「大和魂」というものは、やはり目に見えないところに内在するそれらの何か要素を多く含んでいる気がしてならない。人と人とのコミュニケーションにおいて、『メッセージ』というものはただの言葉の羅列ではなく、表情であれ、音に倍音をどう載せるのかという事などの総合的なものが『メッセージ』として届くとすれば、西洋的なメッセージの発信であり受信というものは、それこそ表面的に出ているものであって、日本的なメッセージの発信であり受信というものは、その言葉の奥に入れられている何かエネルギー的なものと比較することが出来るのではなかろうか。そうすると、最近流行りのメールだのチャットだのというやり取りが、西洋的であるのか、日本的であるのかという事も分かってきて、やはり言葉の中にエネルギーを込めて伝える言語である日本語の場合、音を発する事の重要性というのは大いにある気がしてならない。

 音から表情がなくなった時、日本語から「大和魂」は失われる。海外に『言霊』という概念が存在するかどうかは分からないが、今回の倍音というコンテクストと、その国の言語が母音メインか子音メインかという事で考えれば、子音メインの言語の国の人々には『言霊』という概念はおそらくないし、あったとしても違うコンテクスト上の意味合いのものを言っているのだろう。おそらく、素直に考えれば『言霊』の正体は、この「母音に倍音を載せて音に表情をつける」というここに集約されているのだろう。

 そう考えると、これもまた「言霊」だの「音魂」だのとオカルトチックな事を勝手に自分の思い込みで妄想世界に憑りつかれる人たちの格好の餌食になってしまう『言霊』なのだが、基本的にはこの母音メインの言語である日本語の言葉にしっかり倍音によって表情をつけた言葉の音の事を『言霊』と呼ぶのであろうから、それは決して魔法のようなものではなくて、それらの原理さえ分かっていれば我々日本人は『言霊』を操ることが出来るということになる。そして、オカルト大好き人間達がありもしない世界観によって創っている呪文のような言霊世界など「自分の外側の世界」には存在していない。だけど、西洋の言語にはない、言葉に倍音を載せる技術(=言霊技術)は実際に存在しているのだ。

 そしてそれらは身体にも影響を及ぼすのは当然だ。今現在、西洋式の発声方法で日本語を話すという事はどういうことかというと、刺身にマヨネーズをつけてたり、ソースをつけて食べているのと同じだという事だ。日本で食べる寿司と西洋で食べる寿司のクオリティのあまりの違いを知る者であれば分かりやすいと思うが、日本的なものを西洋的に表現すると、西洋的なあのクオリティの低い寿司のような状態が起こる。

 もしも我々が「言葉の発生の仕方」が西洋的になり、我々の日本語の『言霊』クオリティが西洋の国で食べる寿司クオリティに成り下がってしまっていたとしたら、それは普段のパフォーマンスが落ちるのも当然だろう。昔と違って社会がグローバル化しているのは当然な事で、西洋の文化であれ、技術を鎖国的に受け入れるなという事を言っているのではないのだが、受け入れすぎて刺身にソースやケチャップをつけて食べてみるとか、西洋の国で食べる寿司クオリティに、日本的なものをいちいちベチャベチャにして、我々が本来持っているであろう「大和魂」をそうやってベチャベチャにして、何もかもを西洋かぶれにしてめちゃくちゃにする必要はないし、それこそせっかく日本に生まれてきたのにもったいないとしか言えない。ぺちゃくちゃしゃべるときにおいても、我々日本人は日本人としての誇りをもって、言葉に魂を込めてしゃべるそれこそ「日本人としての義務」のようなものがある気がするし、それこそ神さまがいるのであれば、日本人にGiveしてくれた特別な贈り物の1つのような気がする。だから、我々日本人は一人一人が『言霊使い』であるという自負を持つべきなのだろう。

3:「音」としての日本語について考えてみる

3:「音」としての日本語について考えてみる

 

 さて、前項では主に日本語の「文字」の要素で考察してみたが、この項では日本語の「音」の部分について考えてみたい。各言語には周波数的領域が存在することを御存じだろうか。実は日本人がなかなか英語を習得できないのは、この言葉の周波数の領域が違う領域に存在している事にもあるだろう。「英語がなかなか聞き取れない」という理由はおそらくここにある。しかし、今回は聞き取れるかどうかというよりもその国の言語発する言葉の周波数の領域が、何か「世界を創造する事」にどのくらい関係しているのかという部分についてだ。

 それはどういうことかというと、高い周波数の言葉で創られた世界と、低い周波数で創られた世界というものに違いが出るのかどうかという事だ。ちなみに、日本語の周波数の領域は低い。英語は高い周波数にある。ここでなにかヒントを掴みたいのは、「周波数が高いと何なのか?」「周波数が低いと何なのか?」という部分だ。そもそも言葉の周波数が低いとこのような世界が「自分の外側の世界」に投影され、周波数が高いとそのような世界が「自分の外側の世界」に投影されるなどという文献を私自身知らない。むしろ、この本がその部分について述べるはじめての本になる可能性すらあるのだ。

 もちろん、私自身が知らないだけでどこかで議論され尽くしている可能性もなくはないが、語学の学習関係については、それらの文献であれ、サイトを発見することが出来るが、言葉の周波数の高低差によって、世界がどう創られているかなどという内容をどこにも発見できないので、とりあえず手探りで探ってみる事にしよう。ヒントとなるワードは「周波数」「高い」「低い」という部分だろう。

 まず、私がこれらのワードから想像できるものは、「低周波」「高周波」というような世界観のあるものだ。身近なもので創造できるのは低周波治療器なのだが、これは周波数と関係しているのだろうか?どうやら関係しているらしいのだが、治療器の世界では、低周波が表面上で、高周波が奥の方に入っていくような印象をこちらに与える。さらに調べてみると、「低周波は貨物列車」「高周波は飛行機」と表現しているような内容を発見した。このあたりには何かヒントめいたものが潜在している気がしてならない。

 この、低周波は貨物列車」「高周波は飛行機」というこのたとえをヒントに1つの仮説を立ててみる事にしよう。これは言語に当てはめれば「日本語は貨物列車」「英語は飛行機」という事になる。もちろん「速さ」というコンテクストはもちろんあってそこだけで考えれば周波数の高い英語が優秀な気もするが、「地に足が着いている」というコンテクストで考えれば、低い周波数の日本語の方が何かしらの優秀さがあると考えても良い気がする。

 たとえば「ファーストフード」と言えばハンバーガーが代名詞と言ってしまっても遜色はないだろう。このファーストフードの文化は周波数の高いアメリカから日本に流れてきたのかと考えると、日本は日本でファーストフードとは呼ばなくても、ファーストフード的な文化はおそらく存在していただろう。とは言え、そういった「軽くて速い」ような文化を創ったのはどちらかというと言語の周波数が高い国の文化であるような気がしてならない。最近で言えばAmazonの本を注文してから家に届くまでの速さはまさに高周波的速さと表現しても良いのかもしれない。あれらにしてもやはり、英語圏の文化から生み出されたビジネスモデルでありサービスなのではないだろうか。

 「速さ」であれ、「軽さ」であれ、これは何かの面においては非常に魅力的なものを生み出すが、それはまた違う見方をすれば、粗悪なものを生み出す危険性をはらんでいると言っても良いかもしれない。例えば、アメリカの畜産業はまさに我々日本人から見れば、生き物を工業製品を造るかのような方法で合理化させて造っている。それらが果たして本当に良いものであるかどうかは疑わしい話ではあるし、日本人の私としてはそれらの発想を理解する事も受け入れることもなかなか難しい。

 牛肉ひとつとっても、それですら「牛肉は生き物ではないから」とアメリカ人達からツッコミを入れられる可能性はある。しかしなぜ、日本の畜産業は素晴らしい食べ物をつくれるのかというと、やはりそれは日本人的な何かがそこに潜在しているからだろう。やはり、日本人は、アメリカ人のようにそんなに合理的にものを考えることはできない。いずれ殺して食べてしまうにしても、工業製品を扱うように生き物を飼育する事はできないのだ。そのあたりに低い周波数(≒貨物列車)的なる世界観が垣間見えるのは私だけなのだろうか。

 この「貨物列車対飛行機」に似たような事を私は考えたことがあるというか、以前、私はある人物のレポートの内容を指導した時に、「鈍行列車対新幹線」というテーマの議論をしたことを思い出す。この議論は単純に「鈍行列車で時間をかけて旅をする良さ」と「新幹線に乗って快適に早く目的地に到着するたびが良いか」というような議論なのだが、もちろん両方に良い部分と悪い部分がある。だけど、今の時代というのは「早ければ良い」「速ければ良い」という風潮がある気がしてしまうのは私だけだろうか。これは電車に限らず、様々なところで「早ければ良い」「速ければ良い」という価値観が蔓延っている気がしてならない。前述したAmazonの商品お届けの件にしたって同じことが言えるのではないだろうか。

 これは見方を少し変えれば「手軽さ」「便利さ」という部分に価値の重きが置かれたという事だろう。「じっくり」「手間をかけて」みたいな部分に価値が置かれなくなった。それこそ、最近では低料金でマッサージしてくれるお店であったり、散髪のサービスにおいても低料金で短時間でカットしてくれるお店などをよく見かけるが、これらも「手軽さ」「便利さ」を売りにしているサービスと言える。そこにはなんというか「軽さ」のようなものを感じてしまう。

 最近はあまり聞くことがなくなった言葉かもしれないが、「ヤンキー」という言葉がある。これは不良というような意味も強いかもしれないが、やはりアメリカナイズされた感じの不良というような意味合いがある気がしてならない。和風の不良の事を決して「ヤンキー」とは呼ばないだろう。そこにはやはり何か「軽さ」のようなものを感じてならない。

 良くも悪くも「日本語的」「低い周波数的」世界というものの中には、鈍行列車に乗って景色を楽しむ的な要素が含まれるのではないだろうかと考える。急いでいる時にそれらを速く済ませたり、目的地に早く辿り着くことは便利であるかもしれないが、それはどの部分にフォーカスでありコミットしているかというと、数年前から流行っている結果にコミットするという発想だろう。これに対して、鈍行列車の旅は過程(プロセス)にコミットしていると言っても良いだろう。

 もしも「低い周波数=届くのが遅い」と考えてみた時に、「日本人的」であり、「それらに内在する大和魂的」なるものを発見するのであれば、やはりそれらは鈍行列車の旅を彷彿させるような、目的地にたどり着くまでにおける過程を味わうような要素が含まれると考えては良いのではなかろうか。と、私は考えてしまう。

 再び、食べ物の話で考えてみても、アメリカナイズされた食べ物というのは基本的にそれほど咀嚼する事を要さないし、要求してこない食べ物が多いのではないだろうか?それに比べ、少なくとも「大和魂」を我々に喚起するような「日本ならではの」食べ物の多くは、咀嚼する事「よく噛む事」を要求している気がしてならない。「食の欧米化」という言葉があるが、欧米の食べ物と、日本ならではの食べ物の違いとは何なのか?やはり、日本人は作るところの過程から、「食」の世界が創られていて、アメリカ人の食文化と比較すれば、アメリカの「食」の世界は「食べる」という結果の部分にのみ世界があると見ることは出来ないだろうか。

 実際、このあたりの事は私がサッカー指導者をしていたときに各世界のサッカーをよく見て国ごとの違いを考えた時があったが、サッカーひとつ取ってもアメリカには「結果にコミットとする」サッカーが如実に表現されていたように見えたのだ。ヨーロッパの伝統的なサッカーに比べて、サッカーに伝統などないフィジカル的には優れた選手の多いアメリカのサッカーは、「とにかく点が取れればそれで良い」というように見えた。それだけに、私にとってはそのサッカーがある意味斬新で感動してしまったのも事実だったりする。

 日本語の文法と英語の文法を比較しても「結論」がズバッ早く届くのは比較するまでもなく英語であって、日本語程まわりくどい言い方をすることが出来る言語はないのではなかろうかというレベルで日本語はとてつもなくまわりくどい。この部分で考えても、欧米の言語は日本語に比べて「高周波的」であって、日本語は音の周波数にしても、文法の構造から言っても、「低周波的」だと言える気がする。

 この観点からすると、「日本人的」であり、「大和魂の発動的」な事を考えれば、『しっかり過程を咀嚼した上でゴールにたどり着く』というこういう物事の接し方であれ、生き方が「日本人的」「大和魂を震わせる生き方」と考えてよいのではないだろうかと、私は推測してみた。

 実際、今の時代において世界から評価されている多くの日本人たちも「ものごとを咀嚼する力」によって、日本国外の文化を日本人なりのカスタマイズであり、アドリブを効かせて世界を驚かさせているような気がしてならない。この項で「大和魂」の中にあるであろう必須の要素は「日本人なら咀嚼力」という事をひとつ仮説として立てたい。なので、自分なりに「大和魂=咀嚼力」という部分を意識して自分自身を実験台にして今後生きていく事で、どういう結果になるかで、「日本ならではの咀嚼力」がどうすれば魂に関係しているのかを引き続き追いかけていく事にする。

 そう考えた時に、個人的にこだわっている部分が一つある。それは子ども達の登下校だ。危険を回避するという理由だと思うが、集団登下校なるもので子ども達は自由を奪われた。何の自由が奪われたのか?それは『寄り道の自由』のことだ。この『寄り道』こそ私は「咀嚼」そのものと考えていて、もしも「大和魂」に「咀嚼する力」が大きく関係しているのであれば、今の日本は、義務教育の場において、我々日本人から子どものうちから「大和魂」というエンジンを奪おうとしていることになる。

 私の個人的な要望としては、国を挙げて『寄り道文化』を復活させて、「咀嚼する力のある日本人の育成」を皆でそういう環境づくりをするべきだと考える。が、国になど期待してもいつになるのかも分からないし、逆の方向に進む場合すらあるので、やはり自分でやれることをやっていくしかないといういつもの結論に落ち着いてしまう。むしろ、日本の政治であれ、政治家たちを見て「咀嚼する」ような日本語的な政治をしている人間等皆無に見えてしまう。そういう意味で考えれば、今の日本は、高周波的世界だと言えるだろうし、少なくとも1000年前の日本と比べて、投影されている世界は明らかに高周波的な世界になっている事は事実なのではないだろうか。

2:日本語の独自性について考えてみる

2:日本語の独自性について考えてみる

 

 それでは日本語についての独自性について考えてみることにしよう。日本語に一番似ている他所の国はどこの言葉なのだろうか。「漢字」という部分にフォーカスすれば中国であることは間違いないが、「文法」という部分においては中国よりも韓国やモンゴルの方が似ているのかもしれない。少なくとも英語やフランス語と日本語はやはり文字も違えば、文法も違う。

 このあたりから、大分ヤバめな空気というか芳香というかオイニーが立ち込めてくるのだが、まさにそのオイニーに頭をやられると持論過ぎてオナニーみたいな妄想話の方向に進みがちになり、ガチで危ない人っぽく暴走してしまう危険があるのでいかにその誘惑に飲み込まれないように、そこについてだけは皆に、注意が必要なのだが、それはどういう事かというと、

 

 今、我々が使用しているこの日本語も本当の日本語ではないのではないだろうか?

 

という疑問についてだ。「もしかしたら、この日本語になる前のもっと昔の日本語」のようなものがこの島国には存在していたのではなかろうか。という疑問については、正直なところ別に危険ではなく、むしろ疑うべき部分ではあるのだが、何故かこのあたりの事を研究している人は「日本神話」的な「自分の内側の世界」側のお話をあたかも物質的に変換せずに、そっくりそのまんま「自分の外側の世界」にスライドさせてしまう暴挙に出てしまう者が多かったりするので、非常に困りものなのだ。「神さまは概念ではなく実際に存在する説」を唱える一派の方達はこのような事を平気でやるし、だいたいそういう人たちの多くは、原始的な部分についてのお話をものすごく、魔法の世界があたかも過去には「自分の外側の世界」にあったかのようなトンデモWorldのお話にすり替えて、一太刀で頭のおかしい世界を創り、それこそ魔界に引き込んでくる。私が「オナニー的妄想」と言っているのはこの部分だ。思わず、そっちの世界に行きそうになってしまうが、それこそ、そこは行くの我慢して、自分の弱き心を打開しないかぎり、それこそ真実の世界の扉が開かれる事は無いのだ。

 それこそ『設計者』というこの世界を創った者というよりもおそらく宇宙原理のようなものだが、その『設計者』を冒涜しているだろうし、そこにはやはり道徳的なものを感じることが出来ないのだ。もし、そのような「神なる世界」のような世界が、何千年、何万年も昔に存在していたのであれば、それこそその世界は東京ディズニーランドを遥かに凌げる「夢の国」であっただろうけど、そんな事実があるのであれば、現時点でもこの「自分の外側の世界」は、ディズニーさまの「自分の内側の世界」のそれらの『概念』にすがることなく、この世界全体が夢の国そのものになっているはずであって、現実そうなっていないのだから、やはり「自分の内側と外側の世界の関係」についての仕組みについては、ガラスのコップを上空から落とせば割れるという物理法則と同じようにそこを無視したようなトンデモ理論を展開させたところで、なんら建設的な議論を生み出す事は無い。

 その「よく原始的な世界の話するとトンデモ理論に飛びがち」という危険性に注意しながら冷静に、

 

今、我々が使用しているこの日本語も本当の日本語ではないのではないだろうか?

 

 について考えてみたい。やはり、今現我々が在使っている日本語とは違う日本語の存在があったことは間違いないだろう。そもそも漢字は「漢の字」なのだからこれは中国さまから来た文字な訳でして、「日本字」というか「大和字」ではない。そういう漢字がやってくる前に日本で使われていた文字の存在を「カタカムナ文字」とか言うのかもしれないが、こういう部分を追いかける人の多くは先ほど述べた「自分の内側の世界」と「自分の外側の世界」の関係を無視する人がそれこそ頑なに追いかけていずれ例の魔界に引き釣り込まれ、当初の素朴な探求心もいつの間にか形無しになる人達が多いので、個人的にそれらのお話に対して多少アレルギー反応を示してしまうが、果たしてそのあたりの真実がどの程度のものなのかはそれこそ議論百出状態で、それこそそれらの内容はまさに玉石混合状態なので、「自分の内側の世界」の仕組みからすれば「自分が信じたいものを思わず信じてしまいがち」という言ってみれば、依怙贔屓大好き自分アンテナのようものがそれこそ、バイキング方式のビュッフェに行った時のような「好きなものだけ取って食べる」状態に陥ってしまうので、それらの情報を鵜呑みにして過去の日本の文字がこうだったので、大和魂とはこうだなどという論述をすれば、それこそ読者を騙していることになるし、読者以上に自分自身を騙し、それこそ虚しい自慰行為をしているだけになってしまい、それこそ何者かからの慈悲行為も受けることが出来なくなってしまうだろう。

 さて、遣隋使や遣唐使といった中国大陸側に文化を学びに行く前は「漢字」的な感じの文字はなかったと考えるのが妥当だろうし、ひらがなやカタカナも、漢字を崩して作ったものなので、漢字が日本にやってくる前の時代は、それほど漢字ナイズされていないそれこそ、今以上に日本純国産の文字が存在したことであろう。

 文字における歴史は、「今使っている文字とは違う歴史」があることは間違いないとして、では「文法」においてはどうであろうか。よく学校で「古文」的な勉強をするが、あれら古文の読み方は、今の日本語の文法と違う部分がある。

 そこでそれこそ適当に日本語の事を調べてみると、(そもそもこんなものいくら本気で調べようがドラえもんがタイムマシンでも出してくれるか、デロリアンにでも乗ってバック・トゥ・ザ・フューチャー出来ない限り、それこそ紅白対抗憶測合戦の域を越えられないので)とりあえず、考えてよいコンテクストはどこかというと、話し言葉と書き言葉はそもそもが違うという歴史がある。という部分だろう。このあたりも調べてみると文語体だの口語体だのそれらがイコールであるとかないとかとんでもなく面倒くさい議論が行われているので、この本の中では「話し言葉」と「書き言葉」ということで考えてみると、古文的な文章が通常の「書き言葉」として使用されていた時代は「書き言葉」と「話し言葉」には大きなかい離があったようで、どうやら明治時代に言文一致運動的な事が起こり、この「書き言葉」と「話し言葉」のかい離がなくなってくっついたような形になったらしいのだ。もはや明治時代であれば「らしい」ではなくまあそうなのだろう。それまでは、「書き言葉」という日本語と「話し言葉」という日本語、見方によっては二種類の日本語があったということになる。

 おそらく飛鳥時代であろうが平安時代であろうが、もしも我々がタイムスリップしてその時代に行ってしまったとしても「話し言葉」であれば同じ日本人なので、会話をおそらく成立させることは出来るような気がするが、これが「書き言葉」の方になると我々にはまったく理解できない可能性がある。そう考えると、昔の日本語から消えた要素は「書き言葉」側であるという事が言えるだろう。

 もしも、日本語そのものから大和魂が消えてしまった可能性を考えるのであれば、「書き言葉=大和魂」という事になる。もちろんそっくりイコールではなかったとしても、その要素が非常に強いという事になる。誤解の無いようにしつこくすると、現時点ではあくまでも可能性を探るだけであり、それが正しいかどうかは分からない。あくまでも仮説を立てて述べているだけなのだが、では我々が古文と呼んでいる昔の時代の「書き言葉」の中に大和魂の要素が多く含まれているかどうかについて考えてみよう。

 この仮説については、先ほど昔の日本には「話し言葉用日本語」と「書き言葉用日本語」があったので、この「自分の外側の世界」における日本は、果たして「書き言葉用日本語」によって創られたものであるのか、「話し言葉用日本語」で創られたものなのかを考えてみたいのだが、例えばこんな問いを立ててみてはどうだろうか。その問いはどういう問いかというと、

 

 今の時代ではもう作ることが出来ない日本の独自性の出るモノって何か?

 

 という、このあたりの事を考えてみれば何かが見えてくるのではないだろうか。寺であれ神社であれ昔の時代の割には今の時代に同じものが作れるのだろうかという我々日本人ですらその魅力にやられてしまいそうなものが日本には存在しているような気がする。外国人達が日本に不思議な魅力を感じるのもそれらのもの達ではないのだろうか。これらを我々現代の日本人が作る事ができるのかと考えると、おそらく「作れない」ような気がする。今の時代においても優秀なデザイナーであれ、クリエイターは日本人の中に多く存在するが、それらに「純日本的な何か」を感じることは非常に難しい気がする。どちらかというと「世界と日本のかけ合わせ」的なそのような不思議なバランス感覚が世界から見たらウケているだけであって、「純日本的な何か」を生み出している事で賞賛を得ているようにはあまり思えない。

 そうすると、我々現代の日本人が使用している日本語というのは先ほどの「言文一致」している「合体日本語」的な日本語によって創られる『概念』であり、その『概念』をこちら側の世界に投影させているので、もはや飛鳥時代であれ平安時代におけるそれこそ「より日本的な」テイストの世界を投影することも出来ないし、投影することが出来ないという事は「自分の内側の世界」でもそれらを創りだすことがもはやできなくなっていると考えてよいだろう。そしてその理由は「何かが失われたから」であって、この「日本語の変遷の歴史」の中で消えてしまったものは、昔の時代の「書き言葉」だということになる。

 「話し言葉用日本語」は歴史と共に変わってきたことはあったとしても消えたわけではないので、それこそ「魂」としての継承は過去の日本人から、今の日本人に継承されたと考えてよいだろう。しかし、「書き言葉用日本語」が消えてしまった現代においてはなにかしらの「日本の魂」がどこかで消えてしまった感は否めない。それらについては、昔の時代の「書き言葉用日本語」を研究し、この「書き言葉用日本語」がその時代の日本という世界においてどういう影響を与え、「自分の外側の世界」にどのような日本的世界を投影することが出来たのかを考えてみる必要がある。

 個人的な予想としてはやはり伝統的な日本を象徴するそれらの者たちは、どちらかというと、「話し言葉用日本語」で創られた世界ではなく、「書き言葉用日本語」によって生み出された『概念』が、「自分の外側の世界」に投影されている気がしてならない。極端な例を一つ挙げれば、東京スカイツリーのというかあの成り立ちは、もしも「書き言葉用日本語」の世界観で『概念』が創られ、こちら側に投影されていたとしたら、あのような見てくれにはならなかったと思う。あの東京スカイツリーが日本的なのは高さの数字が634mというところぐらいしか見当たらないのは私だけだろうか。無駄にDisりすぎているかもしれないが、東京スカイツリーを見て私は「大和」も「武蔵」も感じることが出来ない。反対に、東京都内には実際に建っていない東京ディズニーランドからは「Tokyo」を感じることは出来る。もはや、今の時代の日本は「大和」というよりも、「Japan」側に寄っている気がする。

 ただし、「書き方用日本語」が今の時代の中で、ほぼ使われていなかったとしても、「大和魂」のすべてが絶たれている訳ではないし、我々日本人がこうやって大和魂の研究をしようという気持ちがそれこそDNAレベルで刻み込まれているのであれば、その現実こそが「まだ我々日本人の中の大和魂は死んじゃいない」という事を物語っている。

1:日本と日本以外の違いって何?

1:日本と日本以外の違いって何?

 

 まず、大和魂が他の国の〇〇魂とそれほど違いがないのであれば、こんなもの研究する必要はない。その反対に、この大和魂という魂が、とにかく独特で、外とは違う部分が多分にあるのであれば、これは研究の必要性も多分にあるはずだ。

 では、魂がどうこうという前に、「そんなに日本って特異なのか?」って事を考えてみたい。ぼんやりしたイメージとしては日本は世界から見たらやっぱりへんてこな国のような気がしてならない。ではその「日本ってへんてこな国」っていうイメージはどこから湧き上がってくるのだろうか。

 1つ目はやはり『神さまの違い』にあると言って良い気がする。日本人が信仰する『神さま』を他の国の者が信仰していない。ここに日本の独自性が窺える。その理由は日本が島国であるという理由もあるかもしれないが、例えばイギリスも島国なのにあのあたりの神さまはみんな「キリスト様」のように思える。それこそ信仰の仕方というか「神さまの定義」のようなものは個性があるのかもしれないが、基本的に「キリスト様」であることに変わりはないし、そこから移民して創られた国々も基本的には「キリスト様」を信仰している。そのため世界観はそれほど違いがない。「これがヨーロピアン」というテイストには国が違ってもなんとなく似たものがある。そう考えれば、日本と中国も似ていると言えば似ているようにも見える。もちろん共通するものも多い。だけど、やはり日本と中国も何か違う。それこそ、中国は大陸側に存在し、日本は島国だ。「鎖国」などという言葉もあり、日本は良くも悪くも外部要因があまり入ってこなかった。その為日本独自の世界が創られていったのだろう。

 魂と神さまにはある共通点がある。その共通点とは「目に見えない」。これは何を意味しているのかと言うと人間が創作できる部分だということだ。例えば「木」であり「人間」の設計というものは人間が創作することは出来ない。もしもクローン技術などで、「生命」を人工的に作り出すことが出来ても、現時点では「生命」そのものを人間が設計することは出来ない。それはどういうことかというと、「心臓がなくても生きていける人間」だとか「魚の様に泳ぎ回れる人間」を創れないという事だ。結局は人工的に創れたとしてもそれらは、この世界の『設計者』の仕様の範疇の中でしか可能ではないという事だ。結局この「魂」であれ「神さま」も人間が創作する『概念』でしかなく、それらはすべてこの『設計者』の掌で転がされているに過ぎないという事なのだろう。

 死ぬと体重がいくらか軽くなって、その正体を「魂」と呼ぶ者もいるが、果たしてこれもある種の都市伝説とそれほど変わらず信憑性がない。そもそも、心臓や肺や胃のような内臓とは別で、自分の魂がどこに内蔵されているのか、何の機能を果たしているのかもわからない。もちろん裸の王様ごっこの好きな妄想好きの人間達は、そんなものがあるのかどうかも分からないのに「魂が」「魂が」とやってくるが、そんな泥酔しているオッサン以上にラリッてる者たちの戯言に付き合ってあげられるほどこちらも暇ではない。

 では、意味のある「神さま」であり「魂」の理解でありの解釈はどのようなものが妥当かと考えれば、それはやはり『概念』として理解する事が妥当だろう。「自分の外側の世界」に「神さま」や「魂」が存在するかどうかについては、現時点ではある事もない事も証明することが出来ない。だが、「自分の内側の世界」であれば、それらがあるということは実証できる。もちろんないと実証しても良い。適切に言えば「あると思う者にはあるし、ないと思う者にはない」ということになる。『概念』としての存在であれば、「神さま」も「魂」も存在する。もちろん「自分の内側の世界」に存在するものは何で創られているのかは人間の「想像力」でしかない。

 しかし、私自身前著「『自分』を最大限生かす人生戦略」の中でも述べたが、「自分の内側の世界」と「自分の外側の世界」はリンクしているという説を提唱している人間の一人である通り、『概念』そのものが無意味な、ただの妄想であるとは思っていない。これが何を意味しているかと言うと、この「自分の外側の世界」に存在するそれらの物質的モノ達は、我々人間の「自分の内側の世界」の中で創られた『概念』が投影されて創られているという考えだ。そう考えると、実際物質的な意味合いでの「神さま」やら「魂」やらは存在しないにしても、『概念』としての「神さま」やら「魂」やらが投影されてこの「自分の外側の世界」における物質であれ、現象であれ具現化しているという考えを私は持っている。ここについては、そうでない限り、説明がつかないと考えるのは私だけなのだろうか。

 この「自分の内側の世界」によって作り出された『概念』によるそれらの世界が、「自分の外側の世界」に物質的に投影された世界が、我々がよく知る世界であるとすれば、『神さま』であり『魂』は、物質的には存在していないとしてもどこかに存在すると考えてもそれほど頭のおかしな話にならないのではないだろうか。

 そして、住んでいる地域ごとによる『神さま』であれ、『魂』という『概念』がこの「自分の外側の世界」に投影されて、ヨーロッパであれ、アジアであれ、日本であれといった世界を「自分の内側の世界」の投影的に創りだす。もしも、我々日本人がはじめからこの日本という島国において、ヨーロッパの人たちと同じ神さまを信じて、この「自分の外側の世界」を創っていたとしたら、ここまでヨーロッパ地方の「自分の外側の世界」と投影される世界がかい離したのだろうか。やはり、もしそうであったときはヨーロッパ地方のそれらと似たような世界がこの島国の中にも創られていた気がする。そもそも明治維新以降は、そういう傾向が強くなっていることに関しては、歴史が物語ってくれているだろうし、例の大戦で敗戦国になった後はさらに日本という「自分の外側の世界」は元々の日本という国とはかけ離れてきた事も間違いないだろう。

 とは言え、日本はアメリカのそっくりさんでもなければ、ヨーロッパ地方のそっくりさんにもなれていない。それこそ、似ようとしても似ることが出来なかったある存在のおかげのような気がする。それは何かというと「言葉」だ。我々日本人に英語を苦手とする者が多いのは何故なのだろう?日本の中にいれば、英語を使わなくて済む、使う必要がないというのはもちろんだが、そもそも英語と日本語の文法のつくりや単語そのものが違うので、ポルトガル人が英語を覚えるのとは訳が違う。

 「はじめに言葉ありき」という教えのようなものがあるが、これはこの項で「自分の内側の世界」の中の『概念』が「自分の外側の世界」に投影されて創られているという部分に通ずるものがあるし、もしかしたら同じ事を言っているのかもしれない。この「はじめに言葉ありき」の中の『言葉』が、「自分の内側の世界」の『概念』であるとすれば同じ意味合いの事を述べているし、それが「自分の外側の世界」側の言葉の事を指していたとしても、どちらにしても「世界を創っている要素は『言葉』次第である。」という事については、私自身もそこに異論はない。何故、日本という日本はこうのような国であり世界になったのか?それは、「日本語」という言葉によって「自分の内側の世界」で創られた『概念』をこれまた「日本語」という言葉によって、「自分の外側の世界」に具現化させるという流れからすれば、自分の内側と外側の世界のどちら側にも『言葉』という存在は介入していて、それこそ「自分の内側の世界」を「自分の外側の世界」に投影するテンプレート的な公式があって、そこに各国の『言葉』を代入すれば、それらの世界観が、「自分の内側の世界」から、「自分の外側の世界」に投影されて具現化されていくというある種の仕組みがあると言っても過言ではないのではなかろうか。

 そう考えていくと、やはり「日本語」について考える必要性があり、この「日本語」という世界創造ツールによって「自分の内側の世界」創られたそれらの『概念』が、日本の神さまであり、大和魂なるものをこの「自分の外側の世界」に投影しているのだろうから、まずは「日本語」についての独自性について次の項では、あーじゃねーこーじゃねーとこねくり回してみることにする。

大和魂の研究~目次~

大和魂の研究~目次~

 

大和魂の研究~はじめに~

 

第一章 <過去の日本を知る>

『大和』というブランドについての研究

 

1:日本と日本以外の違いって何?
2:日本語の独自性について考えてみる
3:「音」としての日本語について考えてみる
4:ボインとhigh and low、倍音にRide on野郎、死因はアイアンクロー
5:西洋が入ってくる前の日本との対話をしてみる
6:日本食という大和魂について実験した西洋人のお話
7:日本人は普通に精霊使い・こびと使いであるというお話
8:日本には神さまがたくさんいることについて考えてみる
9:お侍の精神・武士道について考えてみる
10:日本と『西洋』の違いについて今思うことについての考察

 

 第二章 <現在の日本を知る>

『Japan』という塗り替えられたブランドについての研究

1:日本からJapanへ。~良くなった部分と、悪くなった部分はどこか?~
2:病める日本人の死への行進を止めるにはサラリーマンを辞める方針を決める
3:オタクイズビューティフルは、ジャパンアズナンバーワンの要因となりえるのか
4:ジャパニーズヒップホップは、新しい日本を創生することができるか
5:「ドラゴンボールはなぜ、世界的に人気があるのだろうか」の考察
6
:もう1つのオタク文化である「コンピューターゲーム」の考察
7:日本とスポーツについての考察
8:世界から蔑視される「学習塾・お受験文化」についての考察
9:最後の3S「SEX」についての考察
1
0:現代日本の一大宗教「Japan教」についての考察

 

 第三章 <大和魂について>

大和魂の研究~入手方法からメンテナンスまで~

1:まず、『独自』に日本を研究してみる
2:実際に体験すること・研究することの大切さを知る
3:食べ物について研究する
4:日本の自然に触れてみる日本の自然を感じてみる
5:日本固有のものと対話する機会・習慣を作る
6:日本について大和魂について論じあってみることの大切さ
7:敵を知り己を知れば百戦しても危うからず式で日本を知る
8:陰謀論的なものからヒントを得る
9:入浴と睡眠について疑ってみる
10:サバイバルの時代に、リバイバルすべき時代とは

 

大和魂の研究~さいごに~